2012年4月11日水曜日

天才とは何か?: こんなことしてません?


昨日、「100人の偉人 天才編~ニッポン人が好きな100人の天才~」という番組が放映されていましたが、ふと疑問に思うことがありました。

天才の定義とは何でしょう? 実際、天才と神は定義しようがありませんが、敢えて定義するならウェキペディアの天才の説明が的を射ていると思います(※宮城音弥の『天才』 を読んだからなのですが)。

秀才と天才の相違について:

2012年4月9日月曜日

ブループリントリローディング 音叉ヒーリング


今一歩先へと進むために必要な、魂の青写真のパーツを再読み込み

私たちはだれでも、魂の青写真を創ってからこの地上に生まれてきています。けれども、私たちは日常の生活の中では用意した青写真のうちほんの数パーセントしか活性化していません。

このセッションでは、今のあなたが、次のステップへ進むため、今必要な青写真の再読み込みを促します。これにより、次のステップへ進むための気づきが加速され、現実の行動に自ら変化をもたらすことがサポートされます。

2012年4月8日日曜日

裁判に勝つための弁護士の選び方


 自分が欠陥住宅の被害者になってしまった。
 交渉したがラチがあかない。後は裁判しかない・・といった時に始めて弁護士を探さなければと思うのですが、これがなかなか大変です。

 最初に少し私が関わったケースをご紹介しましょう。

    
 私も「欠陥住宅」の被害者を支援する立場で、すでに10件以上の訴訟案件の裁判や調停に関わり、それ以外でもご相談を受けてきましたが、その中でいろいろなケースを見てきました。そして、そういったケースの中で弁護士がかえって被害救済の足を引っ張っている裁判や調停に出くわしたことがあります。私が関与あるいは相談を受けた案件のいくつかはそういった状態だったのです。さて、どんな状態だったのでしょうか。共通するのは独りよがりの弁護士。さてどんな話でしょう。

・瑕疵を一杯並べさせる弁護士
 今でも多い弁護士のタイプなのですが、設計や工事の違法性ではなく、「ドアが開きにくい」「傷や汚れがひどい」「欠けている」「こうすべきだ� ��といったいわば客観的な判断基準が無い問題に重きを置き、そういった問題を、出来るだけ多く羅列しましょう。と言ってくる弁護士がいます。
 依頼者にとっては、一杯問題点を並び立てた方が裁判としては効果的だし、私の気になっている部分を全て取り上げてくれる良い弁護士さんと思いがちですが、実はこれ、大きな間違いなのです。
 裁判というものは裁判官にジャッジしてもらうのが裁判です。(調停でも基本は同じです)つまり、裁判官がジャッジしやすい主張をすることが大事なのです。そのため、「瑕疵」でも違法性の明確な部分を追求していった方がはるかに裁判官にもわかりやすく、相手からの反論も防げるのですが、客観的基準のない「瑕疵」を並べても争点が多くなるだけで、たとえば� �汚れや傷」といった問題もどこまでの「汚れや傷」を直すべき範囲なのか・・なんて判断は人それぞれで明確ではありません。その結果、裁判の進行は遅くなり、基準が曖昧なので裁判官も判断しにくく、いくらでも反論を許すことになり、延々数年がかりの裁判という馬鹿げた裁判をしてしまうことになります。
 注:こういったケースでは、ほとんどが建築士を利用せず、弁護士だけで裁判や調停を薦めている例が多いように感じます。(注:建築士自体がこのタイプの建築士もいます)

2012年4月7日土曜日

メンタル


【運転の無意識化と意識化】

クルマの運転を行なうとき、まず一番最初の覚える段階(教習の段階)では、大部分の運転操作が意識して行われています。

意識してする動作はぎこちなくなるのが当然です。

それが、運転の回数を重ねていくうちに意識せずとも操作ができるようになるわけです。

意識せずともできる操作というものはスムーズな動作です。

この、<意識>→<無意識>の昇華は、運転に限らず人間の行動ならほとんどのものにあてはまるのです。

たとえば、朝起きて歯磨きをすること。

たまに念入りに磨こうと思って意識して行なうときもありますが、ほとんどの場合、歯磨き中は他のことを考えながら、もしくは何も考えずボーっと行なっているはずです。

たとえば、お箸を使ってものをたべること。

日本人なら当たり前に使うお箸でも、その文化のない外国人の人からすれば、お箸を使ってものを食べることは難しいし、それにトライするとなれば、相当意識してお箸を扱わざるを得ません(料理を味わう意識が半減するぐらい)。

日本人の我々だって、もう記憶には残ってないかもしれませんが、小さい頃スプーンやフォークから、初めてお箸を使うようになった時期は、うまく扱えなかったはずです。

しかし成長するなかで、誰もが意識せずにお箸を扱えるようになっていきます。

大人ともなれば、食事中、普通はそこで出された料理やそのときの会話に意識が向いています。

ということで極論になるかもしれませんが、「クルマを運転すること」=「お箸を使ってものを食べること」と言いたいのです。

つまり、「誰でもできるようになること」です。

すぐにできるようになるか、時間がかかるかは、人それぞれですが、いずれできるようになります。

日常生活で何とかクルマを乗れるぐらいのレベルならば。

 

 

そこで気をつけなければならないのは、とにかく無意識化すればいい、ということではないことです。
無意識化の恐いところは、悪い行動でも(悪い行動のほうが)無意識化していくことです。

目指すのは、良い行動が無意識化して習慣化されることです。

しかし、悲しいことに人は悪い行動も無意識化されているはずです。

その悪い行動の無意識化(習慣)は、自分で気がつくのは至難の業で、第三者からの指摘を受けたり自分の行動をビデオに撮るなどして客観的に見たりすることをしないとなかなか気がつくことができません。

これは、なかなか苦しいものがあります。

例えそれが悪い行動だとしても、一度身についた無意識の行動はスムーズな動作であるはずで、それをわざわざ意識して一旦壊す(一時的にスムーズでなくなる)ことはツライですよね。

スムーズにできているんだから問題ナイネ!� �と思いたいですよね。

しかしそこが分かれ道で、運転操作を向上させようと思うならば、常日頃から自分自身の運転行動を意識化し改善していこうという気持ちが大事です。

効果的なのは、同乗者からの指摘や意見、ときには苦言を聞くことなのですが、他人からの指摘や意見を素直に聞くのは難しいですね。

特に運転に関しては。

他人からの意見を素直に聞いて、なおかつそれを取り入れられる人は、運転技能だけでなく人間的にも尊敬するに値する人になるはずです。

それぐらい、難しいことですが、少しでも実践してみましょう。
  




 【運転と自信】

クルマを運転するのにあたって、'自信'は必要かどうか。

教本にも書いてあるのですが、ある会社のデータで、よく事故を起こすドライバーは、自分のことを「運転が上手い」と思っているのに対し、事故を起こさないドライバーは、自分のことを「運転がうまくない」と思っているそうです。

このデータで分かることは、自分のことを「運転がうまい」と過信することで事故を引き寄せるし、自分は「運転がうまくない」と気を引き締めて運転すれば事故にならないということです。

安全運転にとって大事なのは、テクニックよりメンタルの部分です。

若い人は自分の技量を過信しやすいと言われていますが、若くない人もクルマの運転に関しては、自分の技量を過信しやすいので� ��ないかと思います。

2012年4月5日木曜日

美的10周年記念企画┃“すっぴん”美人コンテスト参加者募集中!|美的.com


3月26日に開催する、キレイを格上げ!美の祭典、『美的』10周年イベント。このイベントのスペシャル企画として有名人の方々の"すっぴん写真"も準備中です! さらに読者応募の「すっぴん美人コンテスト」の受賞者の発表も。受賞者には、今後『美的』登場のチャンスが…! 素顔に自信のある方、ぜひご応募をお待ちしております!!

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2012年4月4日水曜日

アカデミー作品賞の全て


第1回
1927─28
つばさ

アカデミー作品賞受賞した唯一のサイレント(無声)映画である。翌年の「ブロードウェイ・メロディ」からトーキーになった。元パイロットであり、ジョン・ウエイン主演「紅の翼」等、数々の名作航空映画を撮ったウイリアム・A・ウエルマン監督作品で、空中撮影が見事な効果を上げている。
 また、この年監督賞を受賞した「第七天国」は七層構造のアパートのセットが素晴らしく、主人公を追ってカメラが一階から天井裏へと滑らかにパン(移動撮影)していく場面が印象的だった。芸術的優秀作品賞を受賞した「サンライズ」も白黒撮影が素晴らしい映画で、この頃サイレント映画が豊饒の時を迎えていた事が窺い知れる。

第2回
1928-29
ブロードウェイ・メロディ

 最初期のミュージカル映画。足が太いイモねーちゃん達が、稚拙なダンスを披露しているのはご愛敬。なかなかほのぼの愉しめる。姉妹愛が美しい。吃音の叔父さんのキャラクターが面白くて気に入った。
 しかし、第1回 のオスカーを競ったサイレント映画「つばさ」や「第七天国」「サンライズ」等に比べると、さすがにトーキー黎明期の作品だけに芸術的に質が落ちていることは否めない。

第3回
1929-30
西部戦線異状なし

 反戦映画の原点。今観ると新鮮味はないが、最後の有名な蝶々の場面は確かに詩的で、訴える力を持っている。その後量産された「商業的」反戦映画はリアリズムという点に置いて、アカデミー監督賞を受賞した「プライベート・ライアン」で行き着くところまで到達してしまった感がある(これは褒め言葉ではない…念のため)。これから戦争映画はどのような地平を目指すのだろう?

第4回
1930-31
シマロン

 州に昇格する前のオクラホマを舞台に展開される破天荒な男の一代記。初期の西部劇と� �っても差し支えなかろう。お話は荒っぽいが、冒頭の土地の奪い合いはド迫力で、一見の価値あり。ロン・ハワード監督の「遙かなる大地へ」でこの場面が再現されている。

第5回
1931-32
グランド・ホテル

 「大空港」「タワーリング・インフェルノ」等パニック映画でお馴染みの「グランド・ホテル形式」の始まり。一つの場所に集まった様々な人間模様の妙。伝説の名優達、夢の饗宴。後にミュージカル化され宝塚でも上演された。ミュージカル版は未見。再演熱望!

第6回
1932-33
カヴァルケード(大帝国行進曲)

 ある一家の物語を軸に20世紀初頭の時代の変遷を描く大河ドラマ。タイタニック号も出てきます。確かに立派な作品ではあるのだろうが、僕は些か古めかしく感じた。

第7回
1934 < br/>或る夜の出来事

 クラーク・ゲーブルによる、ヒッチハイク講座の可笑しさ!これぞソフィスティケイテッド(洗練された)・コメディ。「卒業」のラストシーンはこの映画へのオマージュである。

第8回
1935
南海征服(戦艦バウンティ号の叛乱)

 これはカット割りが細かく演出もシャープ。男達の戦いが熱い、見応えのある海洋映画であった。クラーク・ゲーブルも若くてカッコイイが憎々しい悪役、チャールズ・ロートンがなんといっても名演。「情婦」のあの老弁護士と、同じ役者には見えないなあ。

第9回
1936
巨星ジーグフェルド

 ブロードウェイ伝説のプロデューサー、ジーグフェルド描くアカデミー作品賞受賞作。長尺で物語はいささか退屈だが、ショー場面のセットの豪華さには度 肝を抜かれる。特にあの、「人間ウエディング・ケーキ」みたいな巨大な螺旋階段のセット!!
 また映画「ファニー・ガール」の主人公、ファニー・ブライス本人が'herself'として登場する。

第10回
1937
ゾラの生涯

 エミール・ゾラの生涯なんて、想像しただけで面白くなさそうなので長らく敬遠していたのだが、観てみると、有名な「ドレフュス事件」を核としてなかなか劇的展開で、予想外に感動し驚いた。これはいわゆる「法廷もの」の原点と云えよう。真実を追究することの尊さが高らかに宣言された映画である。如何にもアメリカ映画らしいスピリッツに満ちた名作。

第11回
1938
我が家の楽園

 元はブロードウェイの戯曲だそうである。「ある夜の出来事」のフランク・キャプラ監督の社会� ��刺喜劇。ここに登場するある一家の面々がとにかく風変わりで面白い。これは人間賛歌である。ただ本作や、アメリカン・デモクラシーの教科書みたいな「スミス都に往く」の様な作品群よりも、キャプラ映画なら僕は「素晴らしき哉、人生!」の方が個人的に偏愛しているのである。

第12回
1939
風と共に去りぬ

 文字通りハリウッド映画の金字塔。中学生で初めて本作を観て、映画の魅力に取り憑かれた。もうこの映画については他の欄で語り尽くしたので、これ位で良いだろう。
 また39年はワイラー版「嵐が丘」や「オズの魔法使い」、「ニノチカ」、「駅馬車」、「邂逅」、「スミス都へ行く」「チップス先生、さようなら」等、沢山の傑作を産み落とし、20世紀で最も豊穣な年として永遠に記憶されるであろ う。

第13回
1940
レベッカ

 イギリスの映画作家アルフレッド・ヒッチコック、渡米後の記念すべき第一作である。ヒッチコックらしからぬゴシック・ロマンで彼特有のユーモアに欠け、今やこれをヒッチコックの代表作と推す人はいないだろう。それでも水準以上の出来になっているのはさすがで、映画的瞬間(magic)に満ちた作品ではあると想う。個人的にヒッチには、「めまい」で作品賞を「サイコ」で監督賞をあげたかったなあ。

第14回
1941
わが谷は緑なりき

 巨匠ジョン・フォードが故郷アイルランドを想い、描く家族の物語。フォード・ファミリー(血縁という意味ではない)もこぞって出演。力強く、何だかとっても温かい、そういう映画である。
 大林宣彦監督はジョン・フォードを「マザ ー・コンプレックスの作家」でハワード・ホークスを「シスター・コンプレックスの作家」と定義した。成る程フォードの描く女達は、母なる大地のように堂々と腰を落ち着けた存在である。
 この年、20世紀の最高傑作ともいわれる「市民ケーン」が公開されたが、映画のモデルになった新聞王ハーストの妨害でオスカーは脚本賞以外受賞できなかった。

第15回
1942
ミニヴァー夫人

 アメリカが参戦した時期の作品であり、銃後を守る良妻賢母のお話であるから云ってしまえば国策映画である。名匠ウイリアム・ワイラー監督作品ではあるが現在、この映画に些かの価値があるのかどうかは大いに疑問である。

第16回
1943
カサブランカ

 職人監督マイケル・カーティスが奇跡の脚本を得て創った、大傑作。なんたってボギーことハンフリー・ボガートの台詞がキザで格好よくって、痺れる。男なら一度はボギーに憧れるものさ。脚本は映画と同時進行で作業が進められ、最後までバーグマンは結末がどうなるのか知らなかったそうである。傑作はどんな形で生まれるのか分からない。主題歌As Time Goes Byも泣かせるねえ。
 カーティスの監督作品なら、他にエロール・フリン主演の大冒険海賊映画「シ−・ホーク」が抜群に面白い。

第17回
1944
我が道を往く

 Going My Wayですな。ビング・クロスビーが「唄う神父」を演じるヒューマン・ドラマ。アカデミー主題歌賞も受賞。物語は些か弛緩していて、ひねくれ者の僕にとってはこの映画で描かれる「善意」がどうも嘘臭くてノレなかった。
 後にイングリット・バーグマンをゲストに迎えて続編「聖(セント)メリーの鐘」が作られた。

第18回
1945
失われた週末

2012年4月2日月曜日

On Art, Morals, And Morality


芸術・道徳・そして道徳水準

 

ジョン・ガードナーの道徳水準の高いフィクションについての視点

 

 

BYUの演劇専攻の大学生だった頃、友人達と芸術"art"について、いわゆる"深く意味のある"会話を延々としたものです。あっ、失礼、こう言った会話の中では、芸術はいつも小文字で始まる"art"ではなくて、大文字で始まる"Art"で扱ってきました。 (英語では特別に大切な名詞は、小文字ではなくて、大文字ではじめて、格差をつけるのでこの様に言っています。) 私たちはモルモン芸術とは何か、それは(存在する)可能性があるか、良い芸術と悪い芸術の違いは何か、つまり、芸術家の観衆に対する責任は何か、そして、芸術評論家、観衆、そして芸術家自身の責任は何か等について思案しました。結局これだという結論に到達する事なく、ジョン・ガードナーの「道徳的フィクション」 (1978年 ニューヨーク発ベーシックブック出版) "Moral Fiction" (New York: Basic Books, 1978) を読むまでは、それについては、その時たどり着いた不決断状態でいました。

 

ガードナーが全ての答えを持っているという訳ではありません。しかし、彼は常に私がその本を誰かに呼んで聞かせたいという思いに駆られる程、十分な答えを持っています。私は、本の価値をなくする事を禁止する自分自身の信条を無視し、この本におびただしく下線を引き、付箋を貼り、星印をつけました。つまり、この本によって、私は元気づけられ、動機づけられ、そして、励まされたのです。

 

どうしてかって?だってあなた、私は、なんと言っても、サイエンスフィクションを書いているのです。しかし、執筆は執筆でしかありませんが、ガードナーが指摘する様に、芸術によって、教える事を免れる事は不可能です。あなたが教えようと意図するかしないかに関わらず、観衆はあなたの作品から教訓を学びますので、どんな教訓を含むか、そして、その芸術を良いものにするか否かは、芸術家と評論家の責務なのです。

 

本物の芸術が教訓的という訳ではありません。教訓主義と本物の芸術は混和しません。つまり、どういう場合であっても、教訓主義が道徳水準の高い物だとは決まっていないのです。ガードナーは「輪が闘争」について考えてみてくださいと言っています。「本物の芸術は『根本的に』道徳水準の高い物である」(p19 原本からの引用は『』内に記載)

 

しかし、どのようにして、道徳水準を定義すれば良いのでしょうか。これはモルモン教徒にとっては難問だと思います。ガードナーはモルモン教徒に向かってこれを書いた訳ではありません。彼は道徳自体が観念として価値を失ってしまっている文学評論家、小説家、学生そして、教師陣に向かって書いているのです。代わりに、間違った関連観念から、一般文学社会は芸術と善悪の関係を否定しています。

 

「評論家や彼らのコメントに耳を立てる類の芸術家達が使う言葉は、大変奇妙になって来ている」とガードナーは言っています。「感情や知的な確信について語る訳でなく、感動的で、驚きに満ちたひねりや筋書き、又は、すばらしい登場人物やアイデアについて語る訳でもなく、しかし、『独自性』、『発見的』、『構造主義』、『形式主義』、または、『不透明な言葉』、そして、例えば、現代主義とポスト現代主義等、知的な牛でさえも頭をひねりたくなる様な、細かい区別でいっぱいです。評論は以前よりも遥かに読みにくくなっているものの、内容は、誠にとるに足りないものになって来ています。」(p4)