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- テキサス州
- State of Texas
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- 州の愛称: ひとつ星の州
Lone Star State -
州都 | オースティン |
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最大の都市 | ヒューストン |
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州知事 | リック・ペリー(en) |
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公用語 | 法的指定なし |
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面積 - 総計 - 陸地 - 水域 | 全米第2位 696,241 km² 678,051 km² 17,574 km² (2.5%) |
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人口(2010年) - 総計 - 人口密度 | 全米第2位 25,145,561人 37.2人/km² |
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合衆国加入 - 順番 - 加入年月日 | 28番目 1845年12月29日 |
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時間帯 | UTC -6, -7 DST -5, -6 |
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緯度 | 北緯25°50' - 36°30' |
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経度 | 西経93°31' - 106°38' |
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東西の幅 | 1,244 km |
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南北の長さ | 1,270 km |
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標高 -最高標高 -平均標高 -最低標高 | 2,667 m 520 m 0 m |
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略称 (ISO 3166-2:US) | US-TX |
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ウェブサイト | テキサス州政府 |
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上院議員 | ケイ・ベイリー・ハッチソン ジョン・コーニン |
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テキサス州(Texas、IPA:/ˈtɛksəs/)は、アメリカ合衆国の州のひとつ。略称はTX。合衆国本土南部にあり、メキシコと国境を接している。
人口[1]はカリフォルニア州、面積[2]はアラスカ州に次いで全米第二位の州である。「テキサス」は、インディアン部族のハシーナイ連合(カドー族)のカドー語で「友人」または「同盟者」を意味する「テイシャ(Teja=táyshaʔ)に由来し[3]、スペイン人がカドー族そのものと東テキサスにおけるその入植地域の名前にあてたものである。テキサス共和国時代から使用されている、白い星を一つあしらった州旗からローン・スター・ステイト(Lone Star State)とも呼ばれる[4]。
テキサス州は南にメキシコ、西にニューメキシコ州、北にオクラホマ州、北東にアーカンソー州、東にルイジアナ州と境を接している。面積は696,241 km2、人口は約2,470万人で現在も増加しつつある。人口ではヒューストンが州内で最大かつ全米でも第4位の都市であり、サンアントニオが州内第2位、全米で第7位となっている。ダラス・フォートワース都市圏とヒューストン大都市圏は全米でそれぞれ第4位と第6位の都市圏である。その他の主要な都市としては、ダラス、エル・パソ、フォートワースおよび州都のオースティンがある。
テキサス州はその大きさやバルコンズ断層のような地質特性の故に、アメリカ合衆国南部と南西部の双方に似通った多様な地理的景観がある[5]。一般には南西部の砂漠を連想されるが、砂漠地の面積は10%足らずである[6]。人口集中地の大半は元のプレーリー、草原、森林および海岸にある。東から西に移動すると、海岸の湿地と松林に始まり、うねりのあるプレーリと岩の多い丘が続き、最後は砂漠とビッグベンドの山脈になる。
「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉はテキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインだった。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有したが、1835年に独立してテキサス共和国となった。1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となった。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国に加盟していた。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごした。
南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスはカウボーイのイメージと結び付けられることが多い。1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では全米のどの州よりも多い[7][8]。各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)は国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。
歴史
詳細は「テキサス州の歴史」を参照
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「メキシコ独立革命」、および「テキサス革命」も参照
先コロンブス期のこの地にはインディアンの諸部族が居住していたが、1492年にアメリカ大陸がクリストファー・コロンブスによって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。
16世紀以来、スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領(「新しいスペイン」)に属し、1821年メキシコがスペインから独立すると、メキシコ領コアウイラ・イ・テハス州の一部となった[9][10]。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め[11]、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為1830年にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した[12]。。
奴隷制を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちはテキサス革命を決心し、1835年にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし[13]、1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅した(アラモの戦い)。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」("Remember the Alamo")を合言葉に、メキシコ軍と対峙、メキシコのカウディーリョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサンジャシントの戦いで撃破した[14]。司令官のサンタ・アナが捕らえられたため、メキシコは止むを得ずテキサス共和国の成立を認めた。
テキサスの独立後、アングロ・サクソンが主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した黒人奴隷制が復活した。
1845年にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として併合された[15]ため、翌1846年テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し米墨戦争が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、1848年アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現カリフォルニア州、アリゾナ州などの現南西部をメキシコから得た。
1861年の南北戦争ではアメリカ連合国に属し[2][16]、戦後1870年に合衆国への復帰が認められた。
地理
参照:テキサス州の地理
テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の3方が川で規定されている。 テキサス州は西部でニューメキシコ州、北部はレッド川を挟んでオクラホマ州に、及び東部はサビン川を挟んでルイジアナ州、およびアーカンソー州に接している。リオ・グランデ川を超えた、南西部において、テキサス州はチワワ、コアウイラ、ヌエボレオン、及びタマウリパスのメキシコの州と接している。パンハンドル地域とオクラホマ州との東部州境は西経100度線、北部州境は北緯36度30分線、ニューメキシコ州との西部州境は西経103度線となっている。エル・パソ市は州の西端にあり、北緯32度線とリオ・グランデ川に接している[17]。テキサス州の南東部においてはメキシコ湾が展開し、バイユーの流れる湿地が多い。最高地点は、州西部のグアダルーペ山脈国立公園内にある標高2,667mのグアダルーペ峰。北西部にはラノ・エスタカドと呼ばれる平原が広がる。
国立公園、州立公園、その他の保護区には、以下のようなものがある。西部の他州に比べ、公有地の面積比率が低い。
テキサス州は面積696,241 km2と、アラスカ州に次いで全米第2位の広さがある。これはフランスより10%だけ大きく、ドイツや日本のほぼ2倍に相当する。世界の行政区分の中では第27位であり、世界の国と比べてもチリやザンビアに続いて第40位である。
テキサス州はケッペンの気候区分では10の地域、土壌区では14の地域、また生態地域では11の地域に区分されるほど、土壌、地勢、地質および植物相や動物相における違いで地域を分類するのが大変なところである[18]。一つの区分法として南東部から西に向って、メキシコ湾海岸平原、内陸低地、グレートプレーンズおよび盆地と山脈地帯に分類する方法がある。メキシコ湾海岸平原は州南東部でメキシコ湾を包み込むようにしている。この地域の植生は密な松林である。内陸低地はなだらかにうねる丘の森林地帯であり、大きな松硬材林の一部である。州中央部のグレートプレーンズはパンハンドル地域やリャノ・エスタカードからオースティンに近いテキサス・ヒル・カントリーに跨っている。この地域はプレーリー(丈の高い草原)やステップ(丈の低い草原)が大半を占めている。テキサス州最西部すなわち「トランス・ペコス」(ペコス川より向こうの地域)は盆地と山脈地帯である。この地域は最も変化が激� �く、サンド・ヒルズ(砂丘)、ストックトン高原、砂漠の渓谷、樹木のある山岳斜面および砂漠の草地がある。
テキサス州には名前の付いた水流だけで3,700、主要河川は15ある[19][20]。最大の川はリオ・グランデ川である。その他の主要河川としては、ペコス川、ブラゾス川、コロラド川およびオクラホマ州との州境になっているレッド川がある。テキサス州には大きな天然湖が無いので、100以上の人口湖を造成してきた[21]。
テキサス州のその大きさと特徴ある歴史のためにアメリカ合衆国のどの地域に属するかは議論のあるところである。文献によってアメリカ合衆国南部あるいは南西部のどちらかあるいは双方に入ると考えられることが多い。州内の幅広い地形、経済および文化の多様性のために州全体を一つの地域に含めることは危険である。州の東部、中央部および北部は南西部よりも南部との結び付きが強く、一方最西部や南部はアメリカ合衆国南部よりも南西部との類似性が強い。
地質
参照:テキサス州の地質
テキサス州はグレートプレーンズの最南端にあり、その南はメキシコの褶曲する東シエラマドレ山脈で終わっている。大陸地殻が安定した中原生代クラトン(剛塊)を形成し、幅広い大陸縁辺と遷移地殻にわたって変化し、メキシコ湾の大洋近くに入っている。テキサス州最古の岩石は中原生代のものとされ、約16億年前とされている。これら先カンブリア時代の火成岩や変成岩が州内の大半に埋っており、リャノの隆起地、ヴァンホーンおよびエル・パソに近いフランクリン山脈の3ヶ所で露出している。堆積岩がこれら古代の岩石の大半を覆っている。最古の堆積岩層は断層のできた大陸縁辺、すなわちカンブリア紀に発展した受動縁辺の側面に堆積している。この縁辺はペンシルベニア紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が衝突し� ��パンゲア大陸が形成されるまで存在した。これはペンシルベニア紀の大陸衝突でアパラチア山脈とウォシタ山地の地帯の埋もれた地殻である。この造山運動の地殻は今日ダラス-ウェーコ-オースティン-アントニオ構造線の下に埋っている。
古生代後期の山脈はジュラ紀の断層がメキシコ湾を開き始めたときに崩壊した。パンゲア大陸が三畳紀に分解し始めたが、海洋底拡大によるメキシコ湾の形成がジュラ紀中期と後期にのみ起こった。海岸線がテキサス州の東縁に再度移り、メキシコ湾の受動縁辺が形成され始めた。
今日、9ないし12マイル (14 - 19 km) の堆積層がテキサス州の大陸棚の下に埋っており、アメリカ合衆国の石油埋蔵量のかなりの部分がここにある。初期のメキシコ湾盆地はその形成の初めには限られたものであり、海水が完全に蒸発することが多くてジュラ紀の厚い蒸発岩を形成した。これら岩塩の堆積物は塩のドーム状ダイアピルを形成しており、東テキサスのメキシコ湾岸に見ることができる[22]。
東テキサスの露頭は白亜紀や古第三紀の堆積物であり、始新世褐炭の重要な沈殿物を含んでいる。北部のミシシッピー紀やペンシルベニア紀の堆積物、西部の二畳紀の堆積物、および東部のメキシコ湾海岸沿いとテキサス州大陸棚の白亜紀堆積物には石油が含まれている。漸新世火山岩がテキサス州最西部ビッグベンド地域に発見されている。西部高原地域のオガララ帯水層と呼ばれる中新世堆積物の層は重要な帯水層である[23]。テキサスは活動的なプレートテクトニクスの境界からは遠くにあり、火山が無く、地震もほとんど無い。
気候
参照:テキサス州の気候
東部は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分:Cfa)、西部はステップ気候(北部はBSk、南西部はBSh)。南西部にチワワ砂漠の北東部が含まれる。州南部では亜熱帯性の気候が見られる。複数の気候区が交っているため、動植物相は多様である。乾燥した西部では、湿地や河川、泉に生息する動植物の中に絶滅危惧種が多い。
テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象である。州のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖である。降水量についても地域での変化が大きい。州最西端のエル・パソでは年間降水量が8インチ (200 mm) にしかならないが、南東部のヒューストンでは54インチ (1,370 mm) にも達する。北中部のダラスでは年間降水量37インチ (940 mm) とそこそこの量である。
パンハンドル地域や州西部の山岳部では舞冬雪が何度も降るが、州北部では年に1、2度、中部と東部では数年に1度しか降らない。サンアントニオより南、すなわち海岸部では極少数の例外を除いて降雪は稀である。最近の降雪例としては2004年のクリスマスイブにヒューストンでは始めてのホワイトクリスマスを記録し、12月の平均最高気温が65°F (18°C) である南のキングズビルでも6インチ (15 cm) の降雪があった[24]。
夏の最高気温は西部山岳部やメキシコ湾のガルベストン島で80°F (26°C) 台、リオ・グランデ渓谷で100F (38°C) 近辺となるが、テキサス州の大半の地域は90F (32°C) 程度である。
夏の夜の気温は西部山岳地での50F (14°C) 台後半[25]から、ガルベストンでの80 (26°C) まで変化する[26]。
雷雨は特に州東部と北部で多い。竜巻道がテキサス州北部を通っている。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっている。竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生している[27]。年間では4月、5月および6月に発生回数が多い[28]。
アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンの幾つかがテキサスを襲った。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっている。このためにガルベストンが主要港湾市の地位を引き継いだ。1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっている。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1915年のガルベストン・ハリケーン、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリー、1961年のハリケーン・カーラ、1967年のハリケーン・ビューラ、1983年のハリケーン・アリシア、2005年のハリケ� �ン・リタ、および2008年のハリケーン・アイクがある[29]。熱帯低気圧も大きな被害を出すことがあり、1989年と2001年のアリソンと1979年のクローデットが特に大きなものである。
テキサス州はアメリカ合衆国で最大の温室効果ガスを排出している[30][31][32]。毎年の二酸化炭素排出量は1.5兆ポンド (6.8億トン) 近くに上っている。世界の国と比較したとき、テキサス州は第7位の排出量となる[31]。
人口動勢
参照:テキサス州の人口動態
テキサス州民を指す英語の呼称は「テクサン」(Texan)であるが、かつてはテクシャン(Texian)と呼ばれていた。スペイン語ではテハーノ(Tejano)といい、英会話ではヒスパニック系のテキサス州民のことを指す。
2009年現在、テキサス州は人口24,782,406人である。前年より1.97%、2000年より16.1%増加した.[33]。2000年と比較して出生数から死亡数を引いた自然増では1,389,275人が増加し、国外からの移民で801,576人、国内移動で451,910人が増加した[2]。2004年時点で350万人の外国出身者がおり(州人口の15.6%に相当)、このうち120万人が不法在留外国人 (不法在留外国人はテキサス州内の外国生まれの3分の1以上及び総計州人口の5.4%と計算する) であると見込まれる。2000年から2006年の間の不法移民増加率では国内最大である[34]。2010年、不法移民は州人口の6.0%となっている。これは国内の50州では5番目に高い数字となっている[35][36]。
テキサス州の人口密度は1平方kmあたり34.8人であり、全国平均の31人より幾らか高くなっている。テキサス州とフランスは国土の大きさが接近しているが、フランスの人口密度は1平方kmあたり110人とかなり高くなっている。
テキサス州民のうち3分の2はヒューストンのような主要都市圏に住んでいる。テキサス州ではダラス・フォートワース都市圏が最大である。ヒューストンがテキサス州最大、かつアメリカ合衆国で第4位であるが、ダラス・フォートワース都市圏はヒューストン都市圏よりかなり大きくなっている。
人種構成
テキサス州の人口動勢 | 2004年 | 2003年 | 2002年 | 2001年 | 2000年 |
総計 | 22,490,022人 | 22,103,374人 | 21,723,220人 | 21,334,855人 | 20,851,790人 |
白人 (ヒスパニック以外) | 10,986,937人 | 11,049,172人 | 11,094,951人 | 11,138,076人 | 11,190,222人 |
| 49.8% | 50.4% | 51.1% | 51.8% | 52.7% |
ヒスパニック (民族問わず) | 7,781,211人 | 7,519,603人 | 7,258,302人 | 6,993,458人 | 6,669,666人 |
| 34.6% | 34.0% | 33.4% | 32.8% | 32.0% |
黒人 (ヒスパニック以外) | 2,535,285人 | 2,500,125人 | 2,463,047人 | 2,426,088人 | 2,378,444人 |
| 11.3% | 11.3% | 11.3% | 11.4% | 11.4% |
アジア系 (ヒスパニック以外) | 695,293人 | 666,261人 | 636,223人 | 604,846人 | 567,526人 |
| 3.1% | 3.0% | 2.9% | 2.8% | 2.7% |
インディアン | 77,662人 | 76,071人 | 74,538人 | 72,762人 | 70,405人 |
| 0.3% | 0.3% | 0.3% | 0.3% | 0.3% |
混血/他 | 210,349人 | 203,238人 | 196,159人 | 188,529人 | 178,812人 |
| 0.9% | 0.9% | 0.9% | 0.9% | 0.9% |
すべてのデータはアメリカ合衆国統計局 州人口見込みからの情報である[37]。
テキサス州内で祖先グループと報告された最大の民族は:メキシコ人 (24.3%)、アフリカ系アメリカ人 (11.5%)、ドイツ系アメリカ人 (9.9%)、アメリカ白人 (7.2%)、及びアイルランド系アメリカ人 (7.2%)。
国勢調査データーはテキサス州の人口の7.8%が5歳以下、28.2%が18歳以下および9.9%が65歳以上と報告している。女性はおおよそ人口の50.4%である。
ドイツ人の子孫は州中部と南東部に多い。テキサス州民の3分の1以上がヒスパニック系であり[38]、最近入ってきた者が多いが、テハーノの中には18世紀のテキサスから数世代を経る者もいる。アフリカ系アメリカ人の場合、元奴隷の子孫に加えて最近の新大移動によって州内に仕事を求めてきた学卒者も多い[39]。最近は特にヒューストンとダラスでアジア系アメリカ人の人口が増加している。その他の都市ではオースティン、コーパスクリスティおよびマッカレンに近いシャリーランドでアジア系アメリカ人の人口がかなり増加している。
宗教
テキサス州の住人の信仰する宗教および宗派は:
2000年時点で最大の宗教会派はローマ・カトリック教会で4,368,969人、次に南部バプテスト協議会3,519,459人、合同メソジスト教会1,022,342人となっている[40]。
テキサス州東部はバイブル・ベルトの「バックル」部と呼ばれ、社会的に保守的である[41]。ダラス・フォートワース都市圏には3つの福音主義者神学校と1つの男子修道院があり、カトリック系神学校であり歴史的建造物のダラス大学もある。ヒューストンのレイクウッド教会は毎週43,000以上の信徒が礼拝することでは国内最大である[42]。地元の伝承ではラボックの一人当たりの教会の数では国内最大と言われる[41]。
非キリスト教宗教の信者はテキサス州の都心部に多い。イスラム教徒は約40万人がいる[43]。ユダヤ教徒は約128,000人である[44]。ヒンドゥー教やシーク教などの信者は146,000人である[45]。
言語
5歳以上の全人口の66.35%が英語、29.09%[46] がスペイン語を話している。スペイン語話者数はカリフォルニア州に次ぐ。英語はテキサス独特の訛りが強い南部アメリカ英語を話す。
インディアン部族
アコキサ族、アラバマ族、アナダルコ族、アパッチ族、アラナマ族、アタカパン族、ビダイ族、ビロキシー族、カドー族、チェロキー族、チョクトー族、コアユルテカン族、コマンチ族、クリーク族、デアドーズ族、アイッシュ族、グアスコ族、ハイナイ族、ハシナイ連邦、ナベダチェ族、ナソニ族、イスレタ族、ヒカリア・アパッチ族、カドハダチョ連邦、カランカワ族、キチャイ族、カイオワ族、コアサチ族、リパン・アパッチ族、ムスコギー連合、パカナ族、パスカゴーラ族、プエブロ族、パチリ族、クアポー族、ショーニー族、シュマン族、ソアカチノ族、タワコニ族、トンカワ族、ワコ族、ウィチタ族といったインディアン部族が、広大な同州の沿岸部から大平原部まで、狩猟民、農耕民取り混ぜて先住していた。
カイオワ族やコマンチ族は18世紀にメキシコ経由で馬を手に入れ、一大騎馬狩猟民となった。遠征隊を組んで、遠く中南米まで足を延ばした記録も残っている。1847年の「和平会談」で、コマンチ族が3000ドル相当の「贈り物」と引き換えに彼らの領土内での白人の通行を認めた。こうして入植白人の幌馬車隊は、この「テキサス道」と呼ばれる入植経路を使ってインディアンの土地に一気に押し寄せた。命の糧のバッファローを虐殺し、勝手に農地を拓く白人の狼藉に怒った略奪狩猟民のカイオワ族やコマンチ族は同盟を組んで、これら入植白人に対して全面的に戦いを挑んだ(「テキサスのインディアン戦争」)。
「開拓者を襲う恐ろしいインディアン」は、20世紀になって西部劇映画の題材として繰り返し描かれた。コマンチ族やカイオワ族、アパッチ族は「悪いインディアン」としてこういった西部劇映画に、デタラメな姿で登場する常連悪役部族となった。「西部劇映画の制作」という国家をあげてのインディアン民族に対する嫌がらせは、1970年代まで半世紀以上も続けられた。
彼らの他に、カランカワ族やトンカワ族、アタカパン族など、多様な部族集団が先住したが、「テキサス・インディアン戦争」の末に、すべて19世紀にオクラホマ州へ強制移住させられた。
全域にかつて先住した一大部族集団「コアユルテカン族」は、19世紀中に白人牧場主による「インディアン狩り」によってほぼ絶滅させられた。インディアンを追い払った後の広大な土地は、「一番遠くまで馬で駆けた者が、そこまでの土地を貰う」というような「賭けごと」によって、日本の市町村級の規模面積で白人個人入植者に分配された。
現在、アメリカ連邦政府から公式認定され、「保留地(Reservation)」を領有する部族はキカプー族、ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族の3つ。キカプー族は、19世紀に5大湖地方から白人の侵入を嫌って南下、この地までやってきた。
ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は、一部がニューメキシコ州からの「飛び地」のような場所に存在し、テキサスに「ティグア保留地」を領有している。アラバマ族とコウシャッタ族は長らく絶滅部族の扱いだったが、近縁の両部族は提携結集し、1987年にアメリカ連邦政府からインディアン部族として公式認定され、「復活」した。