2012年5月31日木曜日


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2010年11月刊の新刊・注目本情報

 少々おくれましたが、2010年の11月刊の新刊・注目本情報です。すこし11月刊でない本も混じっていますが。

 お金がないために新刊の世界が遠くの世界に思えるので新刊情報をアップすることをすっかり忘れていました。ジュンク堂のぶあついハードカバーが遠い世界に思えるきょうこのごろ。

ターケルの「大恐慌」というインタビュー集が夏ころに出ていたのですね。ユーロ危機に火がつくかという時代になりましたね。「生きさせろ!」はちくま文庫入り。

西研の哲学書はわかりやすいかもしれませんね。

サンデル人気でロールズのぶあつくて威容をほこった『正義論』が売れるのでしょうかね。『無縁社会』と『助けてと言えない』のような問題提起をほかのテレビ局もおこなってほしいものです。� ��ういう社会問題系の番組はレギュラー化すべき。

ウィトゲンシュタインの『青色本』は読みやすそうな印象。ジラールの『欲望の現象学』は新装版。文庫で出して。ことしは『超訳 ニーチェの言葉』が売れた年ですね。

『僧兵』は宗教がなぜ兵隊をもったのか違和感をもっています。

『ゲームキャラしか愛せない脳 』はまたトンデモ本くさいな。人の勝手だろと思いますが。

マンガの規制は手塚のころからすっといわれていますが、二次元の世界にハマりすぎることを嫌悪する感情や規範というのはありますね。空想の野放しに脅威を感じるからか、個人化や自閉化の傾向がはなはだしいからか。

言葉の起源は鳥のさえずりにあるのでしょうか。鳥の鳴き声って言葉なのでしょうか。

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2010年10月刊の新刊・注目本情報

 個人的にこの20年読んできた本の再読をはじめています。お金がないのがいちばんですが、いままで新しい本を読み飛ばすばかりで感銘した本もほとんどおぼえていないという状態がふつうでした。いい本でも読み返したり、おぼえたりしないと価値を増さないと思います。そういう反省から感銘した本を、お金がないこのさいに読み返す期間としたいと思います。

 新しい魅力ある本がつぎつぎと刊行される中で新しい動向にふれられないのは残念ですが、新しい本でも同じような趣向を前に見たことがあるとか、あまりにも流行にふりまわされてすぐに話題も有効性も消えてしまう本を読むのはムダです。ときには立ち止まっていい本を読み返すことも必要かと思います。自分にとって必要な本はなにかとそぎ落とせるいい機会だ� �思っています。

アルチュセールの「国家と国家のイデオロギー装置」が文庫入りするとはすごい。平凡社ライブラリーは文庫とはいえない値段ですけど。『近代ヤクザ肯定論』は派遣がなぜ最近まで禁止されたのか、港湾労働と山口組のかかわりがわかる本です。

『エスの系譜』は「和辻哲郎文化賞」「渋沢・クローデル賞」ダブル受賞の互盛央の新作。『アメリカン・デモクラシーの逆説 』は問題作かも。

『権威と上昇願望』と『幕末の世直し 万人の戦争状態』はいずれもわたしの興味をそそります。『プロパガンダ』はマスコミ時代もともかく、いまみたいなネット時代にも洗脳・被洗脳の危機が高まったともいえますね。

『女ぎらい』ですか。

デリダの本も平凡社ライブラリー入り。岩波文庫なみの値段で出してくれないかな。装丁のコストが高いかも。

内田さんの本が二冊出版。勝間バブルとか茂木バブルとかいわれましたが、内田さんは内なる歯止めをもっているでしょうか。内田さんはけっこう高齢ですからためこんだ引き出しがあるかもしれないですね。

『1492 コロンブス』の時代、ヨーロッパは中国やイスラムの大国の中の辺境でしかなかったわけですね� �

助けてと言えない―いま30代に何が NHKクローズアップ現代制作班

お母さんは忙しくなるばかり 家事労働とテクノロジーの社会史 ルース・シュウォーツ・コーワン 法政大学出版局

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2010年9月刊の新刊・注目本情報

 9月の新刊は8月と違ってさすがに読書の秋だけあって、いい本の目白押しですね。

 ほしい本を買うために働かなければと思うのですが、働けばこんどは読む時間すらなくなるんですね。金と時間の永遠のテーマですね。キャンディーつかんで手が抜けないサル状態だけにはなりたくないですが。ほしいものをつくると弱みをつくる。

『千のプラトー』の河出文庫入りは衝撃的ですね。あの分厚い威厳ある単行本をなんど手にとって金と理解が足りないとあきらめたことか。でもすでに『アンチ・オイディプス』で投げ出しましたけど。

『失われた歴史』は西洋のイスラム起源をさぐった本だと思います。西欧中心史観でわれわれは騙されてきました。『地中海世界の〈名誉〉観念』は読みたい本ですね。「名誉 」と人間の興味あるテーマ。

2012年5月19日土曜日


記念すべき第5回目は【2CCP】さんの『マジカルホップ』です。
ジャンルは横スクロールフライングACTとなります。ヾ(*'¬'*)ノ



【ジャケット画像】(クリックでサークルさんサイトへ)

【以下、作品ページよりストーリー引用】


浮遊大陸「バティス」は,大陸自体が巨大な飛空石で出来います。雲の下にはちゃんとした地上があるのですが,「バティス」にすむ人々はその存在は知りません。
そんな浮遊大陸の西のはずれにある小さな町「メサ」に住むマイナは,好奇心旺盛で冒険好き。今日もいつものようにチャラン先生のお使いで,使い魔で親友のムームと共に街の外へと出かけていきました・・・

>作品概要
複数のエリアで構成されたステージを順番に攻略していくスクロールアクションゲーム。
各エリアにはクリア条件が設けられています。各エリアごとにターゲットとなる敵が存在し、そのターゲットと同種の敵をエリア内から全滅することでエリアクリアとなります。
エリアの最後で待ち構えるボスキャラを倒すことでステージクリアとなり、次のステージへ進めるようになります。

>作品特徴
基本は剣による攻撃で敵を倒しながら進んでいきます。
特筆すべきはその個性的なフライングシステム。
プレイヤーは魔法の羽によって数秒間浮遊することができます。
それにより従来の横スクロールに加え、広がりのある縦方向の移動が可能です。
浮遊中はプレイヤーの頭上に浮遊ゲージが表示されます。ゲージは浮遊中にアクションをするたびに減っていき、なくなると落下してしまいますが、敵を倒すと出現する"飛空石"を取るとゲージが僅かに回復するので、定期的に敵を倒すことで長時間浮遊し続けることも可能です。
浮遊アクションは攻略する上で欠かせない要素のため早めに慣れてしまいましょう。
また、スクロールアクションでありながら『レベル』、『魔法』、『アイテム』、『装備』といったRPG的な要素が盛り込まれているので、敵が強くてなかなか進めないという場合でもレベルを上げる、回復アイテムを多めに持ち歩く、より強力な装備品に変更するなどで改善できる作りとなっています。
難易度もスタート時に4段階から選択可能です。
その他、アクションシーンはボイス入りなので非常に華やかです。
要所に挿入される会話シーンもストーリーを盛り上げます。

>グラフィック
グラフィックは同サークルで絵描き担当のまたたびさん。
ティルが声も合わせて好きです。

2012年5月17日木曜日


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(Texas から転送)

テキサス州
State of Texas
州の愛称: ひとつ星の州
Lone Star State
州都 オースティン
最大の都市 ヒューストン
州知事 リック・ペリー(en)
公用語 法的指定なし
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域
全米第2位
696,241 km²
678,051 km²
17,574 km² (2.5%)
人口(2010年)
 - 総計
 - 人口密度
全米第2位
25,145,561人
37.2人/km²
合衆国加入
 - 順番
 - 加入年月日

28番目
1845年12月29日
時間帯 UTC -6, -7
DST -5, -6
緯度 北緯25°50' - 36°30'
経度 西経93°31' - 106°38'
東西の幅 1,244 km
南北の長さ 1,270 km
標高
 -最高標高
 -平均標高
 -最低標高

2,667 m
520 m
0 m
略称 (ISO 3166-2:US) US-TX
ウェブサイト テキサス州政府
上院議員 ケイ・ベイリー・ハッチソン
ジョン・コーニン

テキサス州Texas、IPA:/ˈtɛksəs/)は、アメリカ合衆国の州のひとつ。略称はTX。合衆国本土南部にあり、メキシコと国境を接している。

人口[1]はカリフォルニア州、面積[2]はアラスカ州に次いで全米第二位の州である。「テキサス」は、インディアン部族のハシーナイ連合(カドー族)のカドー語で「友人」または「同盟者」を意味する「テイシャ(Teja=táyshaʔ)に由来し[3]、スペイン人がカドー族そのものと東テキサスにおけるその入植地域の名前にあてたものである。テキサス共和国時代から使用されている、白い星を一つあしらった州旗からローン・スター・ステイト(Lone Star State)とも呼ばれる[4]

テキサス州は南にメキシコ、西にニューメキシコ州、北にオクラホマ州、北東にアーカンソー州、東にルイジアナ州と境を接している。面積は696,241 km2、人口は約2,470万人で現在も増加しつつある。人口ではヒューストンが州内で最大かつ全米でも第4位の都市であり、サンアントニオが州内第2位、全米で第7位となっている。ダラス・フォートワース都市圏とヒューストン大都市圏は全米でそれぞれ第4位と第6位の都市圏である。その他の主要な都市としては、ダラス、エル・パソ、フォートワースおよび州都のオースティンがある。

テキサス州はその大きさやバルコンズ断層のような地質特性の故に、アメリカ合衆国南部と南西部の双方に似通った多様な地理的景観がある[5]。一般には南西部の砂漠を連想されるが、砂漠地の面積は10%足らずである[6]。人口集中地の大半は元のプレーリー、草原、森林および海岸にある。東から西に移動すると、海岸の湿地と松林に始まり、うねりのあるプレーリと岩の多い丘が続き、最後は砂漠とビッグベンドの山脈になる。

「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉はテキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインだった。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有したが、1835年に独立してテキサス共和国となった。1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となった。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国に加盟していた。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごした。

南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスはカウボーイのイメージと結び付けられることが多い。1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では全米のどの州よりも多い[7][8]。各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)は国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。

歴史

詳細は「テキサス州の歴史」を参照

「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「メキシコ独立革命」、および「テキサス革命」も参照

先コロンブス期のこの地にはインディアンの諸部族が居住していたが、1492年にアメリカ大陸がクリストファー・コロンブスによって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。

16世紀以来、スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領(「新しいスペイン」)に属し、1821年メキシコがスペインから独立すると、メキシコ領コアウイラ・イ・テハス州の一部となった[9][10]。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め[11]、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為1830年にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した[12]。。

奴隷制を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちはテキサス革命を決心し、1835年にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし[13]、1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅した(アラモの戦い)。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」("Remember the Alamo")を合言葉に、メキシコ軍と対峙、メキシコのカウディーリョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサンジャシントの戦いで撃破した[14]。司令官のサンタ・アナが捕らえられたため、メキシコは止むを得ずテキサス共和国の成立を認めた。

テキサスの独立後、アングロ・サクソンが主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した黒人奴隷制が復活した。

1845年にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として併合された[15]ため、翌1846年テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し米墨戦争が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、1848年アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現カリフォルニア州、アリゾナ州などの現南西部をメキシコから得た。

1861年の南北戦争ではアメリカ連合国に属し[2][16]、戦後1870年に合衆国への復帰が認められた。

地理

参照:テキサス州の地理

テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の3方が川で規定されている。 テキサス州は西部でニューメキシコ州、北部はレッド川を挟んでオクラホマ州に、及び東部はサビン川を挟んでルイジアナ州、およびアーカンソー州に接している。リオ・グランデ川を超えた、南西部において、テキサス州はチワワ、コアウイラ、ヌエボレオン、及びタマウリパスのメキシコの州と接している。パンハンドル地域とオクラホマ州との東部州境は西経100度線、北部州境は北緯36度30分線、ニューメキシコ州との西部州境は西経103度線となっている。エル・パソ市は州の西端にあり、北緯32度線とリオ・グランデ川に接している[17]。テキサス州の南東部においてはメキシコ湾が展開し、バイユーの流れる湿地が多い。最高地点は、州西部のグアダルーペ山脈国立公園内にある標高2,667mのグアダルーペ峰。北西部にはラノ・エスタカドと呼ばれる平原が広がる。

国立公園、州立公園、その他の保護区には、以下のようなものがある。西部の他州に比べ、公有地の面積比率が低い。

テキサス州は面積696,241 km2と、アラスカ州に次いで全米第2位の広さがある。これはフランスより10%だけ大きく、ドイツや日本のほぼ2倍に相当する。世界の行政区分の中では第27位であり、世界の国と比べてもチリやザンビアに続いて第40位である。

テキサス州はケッペンの気候区分では10の地域、土壌区では14の地域、また生態地域では11の地域に区分されるほど、土壌、地勢、地質および植物相や動物相における違いで地域を分類するのが大変なところである[18]。一つの区分法として南東部から西に向って、メキシコ湾海岸平原、内陸低地、グレートプレーンズおよび盆地と山脈地帯に分類する方法がある。メキシコ湾海岸平原は州南東部でメキシコ湾を包み込むようにしている。この地域の植生は密な松林である。内陸低地はなだらかにうねる丘の森林地帯であり、大きな松硬材林の一部である。州中央部のグレートプレーンズはパンハンドル地域やリャノ・エスタカードからオースティンに近いテキサス・ヒル・カントリーに跨っている。この地域はプレーリー(丈の高い草原)やステップ(丈の低い草原)が大半を占めている。テキサス州最西部すなわち「トランス・ペコス」(ペコス川より向こうの地域)は盆地と山脈地帯である。この地域は最も変化が激� �く、サンド・ヒルズ(砂丘)、ストックトン高原、砂漠の渓谷、樹木のある山岳斜面および砂漠の草地がある。

テキサス州には名前の付いた水流だけで3,700、主要河川は15ある[19][20]。最大の川はリオ・グランデ川である。その他の主要河川としては、ペコス川、ブラゾス川、コロラド川およびオクラホマ州との州境になっているレッド川がある。テキサス州には大きな天然湖が無いので、100以上の人口湖を造成してきた[21]

テキサス州のその大きさと特徴ある歴史のためにアメリカ合衆国のどの地域に属するかは議論のあるところである。文献によってアメリカ合衆国南部あるいは南西部のどちらかあるいは双方に入ると考えられることが多い。州内の幅広い地形、経済および文化の多様性のために州全体を一つの地域に含めることは危険である。州の東部、中央部および北部は南西部よりも南部との結び付きが強く、一方最西部や南部はアメリカ合衆国南部よりも南西部との類似性が強い。

地質

参照:テキサス州の地質

テキサス州はグレートプレーンズの最南端にあり、その南はメキシコの褶曲する東シエラマドレ山脈で終わっている。大陸地殻が安定した中原生代クラトン(剛塊)を形成し、幅広い大陸縁辺と遷移地殻にわたって変化し、メキシコ湾の大洋近くに入っている。テキサス州最古の岩石は中原生代のものとされ、約16億年前とされている。これら先カンブリア時代の火成岩や変成岩が州内の大半に埋っており、リャノの隆起地、ヴァンホーンおよびエル・パソに近いフランクリン山脈の3ヶ所で露出している。堆積岩がこれら古代の岩石の大半を覆っている。最古の堆積岩層は断層のできた大陸縁辺、すなわちカンブリア紀に発展した受動縁辺の側面に堆積している。この縁辺はペンシルベニア紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が衝突し� ��パンゲア大陸が形成されるまで存在した。これはペンシルベニア紀の大陸衝突でアパラチア山脈とウォシタ山地の地帯の埋もれた地殻である。この造山運動の地殻は今日ダラス-ウェーコ-オースティン-アントニオ構造線の下に埋っている。

古生代後期の山脈はジュラ紀の断層がメキシコ湾を開き始めたときに崩壊した。パンゲア大陸が三畳紀に分解し始めたが、海洋底拡大によるメキシコ湾の形成がジュラ紀中期と後期にのみ起こった。海岸線がテキサス州の東縁に再度移り、メキシコ湾の受動縁辺が形成され始めた。

今日、9ないし12マイル (14 - 19 km) の堆積層がテキサス州の大陸棚の下に埋っており、アメリカ合衆国の石油埋蔵量のかなりの部分がここにある。初期のメキシコ湾盆地はその形成の初めには限られたものであり、海水が完全に蒸発することが多くてジュラ紀の厚い蒸発岩を形成した。これら岩塩の堆積物は塩のドーム状ダイアピルを形成しており、東テキサスのメキシコ湾岸に見ることができる[22]

東テキサスの露頭は白亜紀や古第三紀の堆積物であり、始新世褐炭の重要な沈殿物を含んでいる。北部のミシシッピー紀やペンシルベニア紀の堆積物、西部の二畳紀の堆積物、および東部のメキシコ湾海岸沿いとテキサス州大陸棚の白亜紀堆積物には石油が含まれている。漸新世火山岩がテキサス州最西部ビッグベンド地域に発見されている。西部高原地域のオガララ帯水層と呼ばれる中新世堆積物の層は重要な帯水層である[23]。テキサスは活動的なプレートテクトニクスの境界からは遠くにあり、火山が無く、地震もほとんど無い。

気候

参照:テキサス州の気候

東部は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分:Cfa)、西部はステップ気候(北部はBSk、南西部はBSh)。南西部にチワワ砂漠の北東部が含まれる。州南部では亜熱帯性の気候が見られる。複数の気候区が交っているため、動植物相は多様である。乾燥した西部では、湿地や河川、泉に生息する動植物の中に絶滅危惧種が多い。

テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象である。州のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖である。降水量についても地域での変化が大きい。州最西端のエル・パソでは年間降水量が8インチ (200 mm) にしかならないが、南東部のヒューストンでは54インチ (1,370 mm) にも達する。北中部のダラスでは年間降水量37インチ (940 mm) とそこそこの量である。

パンハンドル地域や州西部の山岳部では舞冬雪が何度も降るが、州北部では年に1、2度、中部と東部では数年に1度しか降らない。サンアントニオより南、すなわち海岸部では極少数の例外を除いて降雪は稀である。最近の降雪例としては2004年のクリスマスイブにヒューストンでは始めてのホワイトクリスマスを記録し、12月の平均最高気温が65°F (18°C) である南のキングズビルでも6インチ (15 cm) の降雪があった[24]

夏の最高気温は西部山岳部やメキシコ湾のガルベストン島で80°F (26°C) 台、リオ・グランデ渓谷で100F (38°C) 近辺となるが、テキサス州の大半の地域は90F (32°C) 程度である。

夏の夜の気温は西部山岳地での50F (14°C) 台後半[25]から、ガルベストンでの80 (26°C) まで変化する[26]

雷雨は特に州東部と北部で多い。竜巻道がテキサス州北部を通っている。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっている。竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生している[27]。年間では4月、5月および6月に発生回数が多い[28]

アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンの幾つかがテキサスを襲った。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっている。このためにガルベストンが主要港湾市の地位を引き継いだ。1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっている。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1915年のガルベストン・ハリケーン、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリー、1961年のハリケーン・カーラ、1967年のハリケーン・ビューラ、1983年のハリケーン・アリシア、2005年のハリケ� �ン・リタ、および2008年のハリケーン・アイクがある[29]。熱帯低気圧も大きな被害を出すことがあり、1989年と2001年のアリソンと1979年のクローデットが特に大きなものである。

テキサス州はアメリカ合衆国で最大の温室効果ガスを排出している[30][31][32]。毎年の二酸化炭素排出量は1.5兆ポンド (6.8億トン) 近くに上っている。世界の国と比較したとき、テキサス州は第7位の排出量となる[31]

人口動勢

参照:テキサス州の人口動態

テキサス州民を指す英語の呼称は「テクサン」(Texan)であるが、かつてはテクシャン(Texian)と呼ばれていた。スペイン語ではテハーノ(Tejano)といい、英会話ではヒスパニック系のテキサス州民のことを指す。

2009年現在、テキサス州は人口24,782,406人である。前年より1.97%、2000年より16.1%増加した.[33]。2000年と比較して出生数から死亡数を引いた自然増では1,389,275人が増加し、国外からの移民で801,576人、国内移動で451,910人が増加した[2]。2004年時点で350万人の外国出身者がおり(州人口の15.6%に相当)、このうち120万人が不法在留外国人 (不法在留外国人はテキサス州内の外国生まれの3分の1以上及び総計州人口の5.4%と計算する) であると見込まれる。2000年から2006年の間の不法移民増加率では国内最大である[34]。2010年、不法移民は州人口の6.0%となっている。これは国内の50州では5番目に高い数字となっている[35][36]

テキサス州の人口密度は1平方kmあたり34.8人であり、全国平均の31人より幾らか高くなっている。テキサス州とフランスは国土の大きさが接近しているが、フランスの人口密度は1平方kmあたり110人とかなり高くなっている。

テキサス州民のうち3分の2はヒューストンのような主要都市圏に住んでいる。テキサス州ではダラス・フォートワース都市圏が最大である。ヒューストンがテキサス州最大、かつアメリカ合衆国で第4位であるが、ダラス・フォートワース都市圏はヒューストン都市圏よりかなり大きくなっている。

人種構成

テキサス州の人口動勢 2004年 2003年 2002年 2001年 2000年
総計 22,490,022人 22,103,374人 21,723,220人 21,334,855人 20,851,790人
白人 (ヒスパニック以外) 10,986,937人 11,049,172人 11,094,951人 11,138,076人 11,190,222人
49.8% 50.4% 51.1% 51.8% 52.7%
ヒスパニック (民族問わず) 7,781,211人 7,519,603人 7,258,302人 6,993,458人 6,669,666人
34.6% 34.0% 33.4% 32.8% 32.0%
黒人 (ヒスパニック以外) 2,535,285人 2,500,125人 2,463,047人 2,426,088人 2,378,444人
11.3% 11.3% 11.3% 11.4% 11.4%
アジア系 (ヒスパニック以外) 695,293人 666,261人 636,223人 604,846人 567,526人
3.1% 3.0% 2.9% 2.8% 2.7%
インディアン 77,662人 76,071人 74,538人 72,762人 70,405人
0.3% 0.3% 0.3% 0.3% 0.3%
混血/他 210,349人 203,238人 196,159人 188,529人 178,812人
0.9% 0.9% 0.9% 0.9% 0.9%

すべてのデータはアメリカ合衆国統計局 州人口見込みからの情報である[37]

テキサス州内で祖先グループと報告された最大の民族は:メキシコ人 (24.3%)、アフリカ系アメリカ人 (11.5%)、ドイツ系アメリカ人 (9.9%)、アメリカ白人 (7.2%)、及びアイルランド系アメリカ人 (7.2%)。

国勢調査データーはテキサス州の人口の7.8%が5歳以下、28.2%が18歳以下および9.9%が65歳以上と報告している。女性はおおよそ人口の50.4%である。

ドイツ人の子孫は州中部と南東部に多い。テキサス州民の3分の1以上がヒスパニック系であり[38]、最近入ってきた者が多いが、テハーノの中には18世紀のテキサスから数世代を経る者もいる。アフリカ系アメリカ人の場合、元奴隷の子孫に加えて最近の新大移動によって州内に仕事を求めてきた学卒者も多い[39]。最近は特にヒューストンとダラスでアジア系アメリカ人の人口が増加している。その他の都市ではオースティン、コーパスクリスティおよびマッカレンに近いシャリーランドでアジア系アメリカ人の人口がかなり増加している。

宗教

テキサス州の住人の信仰する宗教および宗派は:

2000年時点で最大の宗教会派はローマ・カトリック教会で4,368,969人、次に南部バプテスト協議会3,519,459人、合同メソジスト教会1,022,342人となっている[40]

テキサス州東部はバイブル・ベルトの「バックル」部と呼ばれ、社会的に保守的である[41]。ダラス・フォートワース都市圏には3つの福音主義者神学校と1つの男子修道院があり、カトリック系神学校であり歴史的建造物のダラス大学もある。ヒューストンのレイクウッド教会は毎週43,000以上の信徒が礼拝することでは国内最大である[42]。地元の伝承ではラボックの一人当たりの教会の数では国内最大と言われる[41]

非キリスト教宗教の信者はテキサス州の都心部に多い。イスラム教徒は約40万人がいる[43]。ユダヤ教徒は約128,000人である[44]。ヒンドゥー教やシーク教などの信者は146,000人である[45]

言語

5歳以上の全人口の66.35%が英語、29.09%[46] がスペイン語を話している。スペイン語話者数はカリフォルニア州に次ぐ。英語はテキサス独特の訛りが強い南部アメリカ英語を話す。

インディアン部族

アコキサ族、アラバマ族、アナダルコ族、アパッチ族、アラナマ族、アタカパン族、ビダイ族、ビロキシー族、カドー族、チェロキー族、チョクトー族、コアユルテカン族、コマンチ族、クリーク族、デアドーズ族、アイッシュ族、グアスコ族、ハイナイ族、ハシナイ連邦、ナベダチェ族、ナソニ族、イスレタ族、ヒカリア・アパッチ族、カドハダチョ連邦、カランカワ族、キチャイ族、カイオワ族、コアサチ族、リパン・アパッチ族、ムスコギー連合、パカナ族、パスカゴーラ族、プエブロ族、パチリ族、クアポー族、ショーニー族、シュマン族、ソアカチノ族、タワコニ族、トンカワ族、ワコ族、ウィチタ族といったインディアン部族が、広大な同州の沿岸部から大平原部まで、狩猟民、農耕民取り混ぜて先住していた。

カイオワ族やコマンチ族は18世紀にメキシコ経由で馬を手に入れ、一大騎馬狩猟民となった。遠征隊を組んで、遠く中南米まで足を延ばした記録も残っている。1847年の「和平会談」で、コマンチ族が3000ドル相当の「贈り物」と引き換えに彼らの領土内での白人の通行を認めた。こうして入植白人の幌馬車隊は、この「テキサス道」と呼ばれる入植経路を使ってインディアンの土地に一気に押し寄せた。命の糧のバッファローを虐殺し、勝手に農地を拓く白人の狼藉に怒った略奪狩猟民のカイオワ族やコマンチ族は同盟を組んで、これら入植白人に対して全面的に戦いを挑んだ(「テキサスのインディアン戦争」)。

「開拓者を襲う恐ろしいインディアン」は、20世紀になって西部劇映画の題材として繰り返し描かれた。コマンチ族やカイオワ族、アパッチ族は「悪いインディアン」としてこういった西部劇映画に、デタラメな姿で登場する常連悪役部族となった。「西部劇映画の制作」という国家をあげてのインディアン民族に対する嫌がらせは、1970年代まで半世紀以上も続けられた。

彼らの他に、カランカワ族やトンカワ族、アタカパン族など、多様な部族集団が先住したが、「テキサス・インディアン戦争」の末に、すべて19世紀にオクラホマ州へ強制移住させられた。

全域にかつて先住した一大部族集団「コアユルテカン族」は、19世紀中に白人牧場主による「インディアン狩り」によってほぼ絶滅させられた。インディアンを追い払った後の広大な土地は、「一番遠くまで馬で駆けた者が、そこまでの土地を貰う」というような「賭けごと」によって、日本の市町村級の規模面積で白人個人入植者に分配された。

現在、アメリカ連邦政府から公式認定され、「保留地(Reservation)」を領有する部族はキカプー族、ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族の3つ。キカプー族は、19世紀に5大湖地方から白人の侵入を嫌って南下、この地までやってきた。

ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は、一部がニューメキシコ州からの「飛び地」のような場所に存在し、テキサスに「ティグア保留地」を領有している。アラバマ族とコウシャッタ族は長らく絶滅部族の扱いだったが、近縁の両部族は提携結集し、1987年にアメリカ連邦政府からインディアン部族として公式認定され、「復活」した。

2012年5月16日水曜日


カイロ(アラビア語: القاهرة‎ (al-Qāhira, アル・カーヒラ), 英語: Cairo)はエジプトの首都である。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つである。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市である。

ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である[1]。2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第50位の都市と評価されており[2]、アフリカの都市としては第1位であった。またプライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、カイロの2008年の都市GDPは1450億ドルで、世界第42位、アフリカでは第1位である[3]

エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ中央、要に位置し、イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。

日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラالقاهرة ; al-Qāhira、現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスルمصر ; Miṣr、現代エジプト方言ではマスル。もともとは「エジプト」を意味する呼称)という通称がよく用いられる。

カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。

[編集] 古代

古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、新王国時代には廃墟となっていた。

 アケメネス朝の時代に現在のバビロン (エジプト)城のあるところに砦が築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.(英語版); Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。

[編集] イスラム帝国時代

イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後ファーティマ朝時代まで一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。フスタートはその後、ウマイヤ朝、アッバース朝のエジプト州治所となった。7世紀のアッバース朝時代にはフスタートの北部にアスカルという新しい町を築き、ここがアッバース朝のエジプト 支配の拠点となった。

9世紀にはいるとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年にはアスカルのさらに北にカターイーの町を築き、イブン=トゥールーン・モスクを建設した。その後トゥールーン朝は弱体化して905年には再びアッバース朝に征服されたものの、すでにアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再び半独立のイフシード朝の首都となった。

[編集] カイロ市の成立

フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、この時点ではカイロには政治機能しか与えられておらず、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で� ��問を奨励し、光学のイブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出してイスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。

2012年5月14日月曜日



2009年6月に小社から刊行した『海岸線の歴史』。
日本人の生活と精神性の変容を、海岸線の変化から解き明かし、日本の歴史観に新たな視点をもたらした一冊としてご好評をいただきました。
今回の「本のこぼれ話」では、筆者の松本健一先生に執筆の動機などを語っていただきます。

第4回 松本健一先生に聞く、『海岸線の歴史』 

語られなかった「海岸線」の歴史

――『海岸線の歴史』、発売以来たくさんの読者からご好評をいただいています。朝日、読売、日経、週刊文春などにも取り上げられ、NHKの週刊ブックレビューでもご紹介いただくなど、主要なメディアの多くに書評が載りました。

松本そうですか。それは良かった。

―― そもそも松本先生が、なぜ「海岸線の歴史」について書こうと思われたのか、その執筆の動機について教えていただけますか。

松本日本は「海岸線」の異常に長い、世界有数の国です。国土面積でいえば日本の25倍近いアメリカの1・5倍、同じく26倍の中国の2倍以上にも達する海岸線を持っています。それにも関わらず「海岸線の歴史」、つまり人間と海が接触する場所の変化を書いた本はこれまでまったくなかった。

なければ自分で書くしかない。調べるうちに次々に新しい発見があり、最初の構想から10年以上かかりましたが、ようやく発刊することができました。
 
直接的な動機は、1998年に『開国・維新』(中央公論社)という本を書いたときのことに起因します。1853年のペリー来航以来、日本がどう開国し、国内の変革をしていったか、その革命の歴史を追った本です。

ただ、それまでの日本の近代史の本は、権力がどう移り変わっていったか、政治体制がどのように変革されたかを調べたものが主流でした。それに対し、『開国・維新』では、もっと「日本人の精神革命」を重視しました。日本人の東洋内にあった精神が、ペリーによる開国によって西洋にも開かれていったのではないかと考えたのです。

開国が日本人の精神をどう変え、国の形や政治体制をどう変えて行ったか。イデオロギー的な意味合いではなくて、もっと文化的、生活的な意味でも変化があっただろうし、その生活の場や風土の形そのものも同時に変わっていったのではないかと、『開国・維新』を書いたすぐ後から、ずっと考え続けていました。

2012年5月12日土曜日


ブレインカウンセラー講座は、NLP、ブレインジム、臨床催眠、リュッシャーカラー、TA(交流分析)、認知心理学、LABプロファイルなど最先端のカウンセリング技法がベースになっています。そのため、良い人間関係をつくる方法、ストレスを解放する方法、夢をかなえる方法が、短期間で身に付きます。ブレインカウンセラー養成講座の特徴は、即効性。すぐに変化があらわれます。それを支えているのが、確かな「技術」と本当にいいものをという「思い」です。

2012年5月11日金曜日


1943年3月、世界が戦争で薄暗く沈んでいたとき、これから始まる新しい秘密兵器の計画に参加しようと、若い科学者たちがニューメキシコ州サンタフェに集まって来た。彼らは公式には、この計画が成功すれば多分戦争が終るだろうとのみ告げられていた。個人的には、彼らが志願した仕事は今後の数年間、鉄条網の向こうで生活し、非常の際にのみ帰宅を許され、博士課程を修了して職業に就くことが遅れることは、先例のない非常に稀なことであった 。彼らは、世界で最初の原爆を考案し、設計し、組立て、そして試験するに他ならない試みにサインしてしまったとささやき合った。この原爆は原子核の中に閉じ込められていた巨大エネルギーを初めて爆発的に開放しようとするものであった。

その他の米国内の数万人の労働者を雇用する秘密施設
  テネシー州オークリッジ;
  シカゴ大学;
  コロンビア川沿いの不毛の地、ワシントン州ハンフォード
ではこの兵器が必要とする数キログラムの新しい金属を苦心して蓄積しつつあった。

新奇な破壊力を持った新兵器を考案し作る仕事に参画することは、今日の限定戦争と核休戦の長い前途からすれば残忍なように見える。戦争は世界を通じて一般的であり、人間が作った死の世界的な流行であった。数十万人の米国人(兄弟やクラスメートや友人たち)が北アフリカと太平洋の島々の前線で彼らの生命を賭けていた。死の鐘の音は既に百万に達していた。ドイツが原爆の開発を進めており、その競争に彼らが先んじていると信じられる理由があり、ナチ国家が核兵器を使って勝利を得るかもしれないと言う危惧が心胆を寒からしめていた。戦後、ウインストン チャーチルが「救いの奇跡」と述べたように、交戦国が震え上がって降伏するくらい破壊力に富んだ新兵器を米国の兵器廠が持っていたら、と誰もが思っただろう。

陸軍は、志願者たちを淡緑褐色の幹部車と乗合自動車に乗せ、ニューメキシコ州の州都から北西のリオグランデ川向うの砂漠地域に運んだ。車列はキャニオンの険しい壁を登る目の回るような、ガードレールのない道路を切り抜けて、世界で最大の死火山の壊れた火口丘から突き出した高い松林台地に入っていった。この台地はロスアラモスと呼ばれ、その名は険しいキャニオンの流れの中で育ち、急流を保護するパンヤの木にちなんで命名された。建設場所は台地の西端にあり、そこに秘密の研究所が建設中で、聖域として売りに出された場所に以前あった小学校の時代から残っていた立派だが隙間のある丸太小屋の周りをトラックやグレーダーが泉のぬかるみを当てもなくうろついていた。

時間の無駄は許されなかった。この丘の上で行われる計画が本当に戦争を終らせたら、その挑戦は人間の歴史の中で評価されるであろう。建設が進行している間(陸軍兵舎を引き伸ばしたような木造の研究所が学校の南側からメインロードを横切って建ち、細長い真空タンクと大きくて重い電磁石が労働に従事する平床のトラックに乗せられ、覆いを掛けられてやってくる)、少なくとも議論だけは始めることが出来た。その議論は、止むことなく取付かれた様に二年半続き、寒い砂漠の夜を昼間に変えた巨大な目のくらむような火の玉で頂点に達した。

ロスアラモスにやって来た数ダースの若い米国人たち(卒業した学生及び最近学位を取得した者)は彼らが教科書で知っている著名な科学者と一緒に仕事ができることを知った:
J.ロバート オッペンハイマーはこの秘密の研究所の所長で、裕福で世界主義者のニューヨーカー。1920年代後半に欧州での研究から帰り、米国で最初の理論物理の学科をカリフオルニア大学バークレイ校に設立した;
エンリコ フエルミはイタリア人ノーベル賞受賞者で、イタリアが生んだ三または四大物理学者の一人;
I.I.ラビは米国人ノーベル賞受賞者、小柄でウイットに富んだ人でロスアラモスには顧問としてやって来たが、MITでレーダーの研究に力を注いだ;
エドワード テラーは低音でエキサイトし易いハンガリー人の多才な理論家;
ハンス ベスはナチスドイツの反ユダヤ迫害を逃れた移民。星が輝くもとになる核連鎖反応を解き明かした。
高年齢の人がいたが(オッペンハイマーは38歳)、このグループの平均年齢は24歳に過ぎなかった。

オッペンハイマーの弟子ロバート サーバーは痩せ型の若い理論家で、冷静で内気だが彼に与えられた命題を指揮するのに熱心だった。彼は新しい秘密研究所で一連の講座を始めた。前年夏、サーバーはバークレイで秘密のセミナーを行った。そこで彼が議論しようとするアイデアを見つけ探求していた;オッペンハイマー、ベス、及びテラーは共にオッペンハイマーのバークレイ研究室の会議室で夏のミーテイングを行った仲間である。ロスアラモスでもチョークを持ち黒板を背にして、サーバーは新世界の扉を開ける仕事を続けた。

「この計画の目的は」とこの若い理論家は志望者の顔を見渡しながら話し始めた。「核分裂を起すとして知られる一つ又はそれ以上の元素から、早い中性子連鎖反応によってエネルギーを開放する爆弾を実用兵器として造り出すことである」。それは確信であるばかりでなくニュースであり、聴衆にため息を漏らさせるものであった。どこかほかに秘密の計画に従事したことのある人々も驚き、そして喜んだ。あらかじめ、軍事機密を保護するため彼等は彼等の仕事にすぐに影響を及ぼすことのみ知ることを許された;今や、彼らがロスアラモスで働くために招かれたとき、オッペンハイマーは皆すべてのこと知り得ると約束した。彼らを隔離した鉄条網、戦争の期間中彼等を荒地の真中に閉じ込めた旅行制限もまた、彼等が科学的な言論を することを自由にした。オッペンハイマーは陸軍に、開かれた討論は科学の活力の源であり、仕事を成し遂げるに唯一の道であると言って納得させた。

2012年5月9日水曜日


 

 

1-1「ヴァレー・セクション」教育

 

ゲディスのモットーである「生きることによって学ぶ」ことを子供たちに教えるにはどうしたら良いのか、かれは実行不可能とも思える以下のような「参画学習」を提案し、実行させています。

 

最も初期の幼少期から自分の回りの世界、現実の世界を発見すること。山から海までに何があるのか、山地の村落から海岸都市まで、鉱夫から漁師まで、人間の職業や文化にはどんなものが含まれているのか、それらを知ることです。歴史、芸術、文学を学ぶことです。まずは、じぶんの「ヴァレー・セクション」に今住んでいる人々の生と仕事に、その後、過去の記録に学ぶことです。直接戸外で観察し、次いで図書館で読むこと。人々・仕事を単に観察するというのではなく、山から海に至る様々な生に参画すること。しばらくの間、樵、羊飼い、漁師、農民になることです。

 

「しばらくの間、樵、羊飼い、漁師、農民になる」というのは信じ難いことに文字通りの参画学習の提案なのです。なったつもりで考えるということではありません。

長男のアラスターはこのような「ヴァレー・セクション」教育の模範生でした。かれは羊飼い、ニシン船のコック、石工として働き、大富豪の社会主義者ジョセフ・フェルスの実験農場で実践的農業を学びました。人柄と才能に惚れたフェルスがかれを養子にして富を継がせようと願ったと言われています。15歳でミルポート動物学研究所の実験助手、16歳で救命ボートの舵手の国家試験に合格、軍馬の調教等々。中でも特筆すべきなのは1909年、18歳の夏の北極探査でしょう。ウィリアム・S・ブルース博士の助手としてスピッツルゲン近辺の島の地図作製の手伝いをしました。今でもスピッツベルゲンにはゲディス山とアラスター岬の名が残されているということです。

ゲディスはまた「子どもの教育には二つの主要な仕事があります。一つは庭を作ることであり、一つは箱を作ることです。……真実の手、真実の眼を手に入れるのは、早い時期でなければなりません。」とも述べています。早い時期とは「手と脳のセンターがまだ十分柔軟に順応できる時期」で、ルネッサンスの巨匠の場合と異なり、代人の場合、「脳と手の有機的潜在的機能の高度な技能を手に入れるには生理学的に遅すぎる」とも言っています。アラスターもまた確信犯的登校拒否児童となって「庭作り」と「箱作り」に専念させられました。

 

1-2 ヴァレー・セクションの基本図式

 

ヴァレー・セクションの図式には色々なヴァージョンがありますが、その最も基本的なものは以下の図式であると考えられます。

 

11904年版、ヴァレー・セクション

 

 

ゲディスの評伝を出版したフィリップ・メレは、1904年、「ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスでの講義でゲディスは地域調査への接近の応用を別の図式の助けを借りて描き出しています。それがこのヴァレー・セクションです」と述べて上記の図式を図4として掲載しています。

デザイナーとしてもゲディスに助力したメレの記憶を信じて、このヴァージョンをわたしは「1904年版」と呼んで差し支えないのではないかと思います。

さてそうなると、ヴェルターが、1909年に公刊されたものとしている「ヴァレー・セクション」のヴァージョンは、それより後のものということになります。

 

21909版、ヴァレー・セクション

 

 

両図の大きな違いは、「庭師」がいなくなってしまったという点にあります。また背景の農場にも相違が見られます。1904年版では二つの農具の背景は同じでたわわに実る畑が描かれていましたが、ここではそれらの背景が描き分けられています。

 

1-3 八つの象徴的な道具

 

1904年版、ヴァレー・セクションの図式に描かれている八つの象徴的な道具について見てみましょう。1909年版も道具の描写はほぼ同じです。

 

3)八つの象徴的な道具

 

 

一番左手には、鉱夫が堅牢な鉱山の掘削に用いる両刃の鶴嘴が描かれています。

その隣にあるのは樹木の伐採や薪割りに用いる(まさかり)です。次は狩猟に用いる弓矢、続いて羊飼いの杖が描かれています。この杖の先は湾曲しています。司教杖はこの形状を継承したものです。羊だけでなく人をも導く杖だということになります。次の三つは農機具です。最初は荒れ地を耕すための堅牢な開墾鍬、次のシンボルはプラウと呼ばれる西洋鋤です。日本の鋤とは形状が異なっています。最後は庭園や菜園で用いられるシャベルです。右端に最後に描かれているのは漁師の網です。これら八つの道具は、最も素朴で基本的な職業のシンボルとしてこの図に描かれているのです。

 

1-4 ゲディスによる基本的職業の詳細な解説

 

1923年のニューヨークでの講演で、晩年のゲディスは自らこれらの職業について語っています。

 

1)鉱夫

かれは「最初はフリントの鉱夫(サフォークのブランドンで。その薄削されたフリントの交易は先史時代にまで遡るもの)」と述べています。フリント((すい)石)は現在では辞書などでは火打石と訳されています。しかし火打ち金が存在していなかった石器時代においては堅い上に加工しやすいフリントはあらゆる石器の材料として生活必需品であったのです。

2)樵

森の住人、樵は鉞で森を開拓した「文明の主要なリーダー」と呼べるかもしれないとゲディスは述べています。かれは「建築業者、船大工、家具メーカー、柵作り、築城家」ともなる最初のエンジニアだとも言っています。

3)猟師

つぎに来るのがハンターです。北極のエスキモーからオーストラリアの原住民まで現代の狩猟民族は文明的で平和を好む民族であることを留保しつつ、ゲディスは西洋における猟師はそうではないと述べています。西洋のハンターは「人間の狩人」となったと言うのです。かれらは王、貴族、統治者となり、戦争を仕掛ける者、戦争のリーダーになります。スポーツやゲームを彼らが生み出したのも偶然ではなく、若者の軍事教練のためであったとも指摘しいます。

4)牧人

羊飼いは、そのような好戦的なハンターの対極に位置づけられています。最盛期の短いハンターに対して生を上手に管理して長老社会を生み出した羊飼いたちは、非寛容な戦争という手段ではなく、辛抱強い外交を通じて紛争を解決します。かれらは世俗的な権力よりも遥かに高い精神的な力を希求します。

ゲディスは「良き牧人」の現代のイメージは子羊を肩にかつぐ「牧人アポロンに由来する」と述べています。バティカン美術館の「良き牧人」の彫像はキリストと同定されるのが一般的ですが、「良き牧人」の図像自体は紀元前6世紀のアテネにまで遡ることができます。

さらにゲディスは、「旅人の精神、ユダヤの理想主義と学識、ギリシャの哲学と精緻さ、ローマの市民性」を自らの内に体験統合して布教の旅を貫徹した「タルスス出身の聖パウロ」を理想的牧人と看做してもいます。

 

さて次に続く三つの職業に関してはどうでしょうか?

1904年版では、二種類を「農夫」最後を「庭師」としていましたが、1909年版では、三種類の農具を纏めて「農夫」のシンボルとし、「庭師」の項目は消えました。最終的な1930年の総括的図式では、「貧農」、「豪農」、「庭師」と細分化したゲディスですが、1923年の講演においても庭師の項目はありません。

5)貧農

かれは、「貧農(the poor peasant)」 と「農夫(the farmer)」という二つの項目を立てています。普通、ピーサントは「小作人」、ファーマーは「農夫」一般か「自作農夫」と考えられますが、ゲディスの解説では違っています。かれは、「貧しい農夫」というのは、農園の労働者や小作人のことではなく、スコットランドなどの「高地の小自作農夫」のことだと断っています。小さいながら自営の農業を営んでいる人たちです。麦には適さず、「イバラとアザミにしか適合しない大地」を所有しているかれらは荒れた大地を耕すという最も過酷な労働を強いられ、極貧の中で空腹に泣きながら節約して蓄えておいた種を春に蒔く。ゲディスは「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」という詩篇、126:5を引用しています。

貧しいが故に用心深く節約に励み相互扶助によって生き延びてゆく「この社会的タイプの人々によって銀行と保険会社が創設された」とゲディスは指摘しています。

喜びの声をもって刈り取る」かれらには、この地域特有の歌と物語、音楽と舞踊に恵まれています。牧草地と麦畑の間に寒々と横たわる荒れた高地は、牧人と農夫を分離すると同時に結びつけてもいて、両者に高度の文化的刺激を与えているとゲディスは賞賛しています。

6)農夫

かれは「つぎに金持ちの農夫に移りましょう」と語りだします。農夫と題されているこの項目は、1930年の図式では「豪農」と記されています。

かれらは「かつて大草原であった平野の深くて肥沃な耕地」を所有し、「(たわ)わに実る小麦」を収穫します。それはかれらにおいしい白いパンを供給しますが、売ることのできる余剰も与えます。孤立した掘建て小屋ではなく、村落や市場の立つ町が形成され、平和と安全のために壁に囲まれた都市が出現してきたのも、誰よりもこれら豪農の要請するところでした。また土地の所有権や商業権を護るために法の専門家も登場して来ることになります。

酒場やクラブでの活発な政治論議を生み出し、かれらの利権を護る政治家を輩出させます。

「ビールやワインの醸造技術に沿って、社会の立憲的進化が発展した」という冗句をゲディスは紹介しています。

牛馬を使役する農法は、かれらに余暇をもたらしました。その余暇が庭作りに費やされることになります。1909年版と同様に農夫と庭師の区別はここでも消えています。

 

農業についての興味深い解釈が、この講演の序論部分で行われています。

欧米における小麦栽培は、荒れ地を耕すことのできる屈強な男性が誰に邪魔されることもなく一人で行うことができ、女子供は手伝うことができても添え物に過ぎない、と指摘し、ゲディスはここに古代ローマから現代のアメリカに至る個人主義と男性中心主義の基盤を見いだしています。「もしわたしたちが東洋人で、米を栽培するとしたら立ち位置は全く異なるものとなるでしょう」とゲディスは言います。米の栽培は単独で勝手に開始することはできません。まず「その地区の渓谷の給水を制御して耕作者の水田に十分行き渡るように調整するための一つの大きな給水委員会」が形成される必要があるからです。個人ではなく、共同体の活動が先行することになります。

さらに小麦栽培には屈強な男性の力が不可欠でしたが、稲作農法は「女性だけでなく小さな子供や祖父母たちも」その役割をそれぞれ果たすことができます。ここでは性の優位は消滅しています。

ゲディスがこのような農法比較を例示したのは、「ヴァレー・セクションが、調査の基礎」であり、「その場所とそこで行われる仕事」がそこに住まう「人々の流儀や制度をいかに深く規定」しているかを発見することができるということを示すためでした。

 

7)漁師

さて最後の漁師についてのゲディスの解説に移りましょう。

人類学者によると、河川での漁の仕事を創始したは女性であり、女性たちは男性と対等の独立独歩の地位を手にしていたと言う説をゲディスは紹介しています。かれは「現代のフェミニスト運動が北海周辺から始まり、次第に内陸へと展開して行ったのも偶然ではない」と補足しています。しかし男性たちはニシンやタラを求めて海に乗り出してゆきます。海上の危険で過酷な環境の中で議論の余地のない命令系統が確立されてゆきます。「海上の漁師は、陸上の隊商を再現し、交易冒険団、旅客船団、移民輸送、郵便船」とも化してゆき、海のハンターとして武装したかれらの「船乗り稼業と海賊行為」は見分けがたくなり、ついには「海軍」へと収斂されてゆくとゲディスは述べています。「貿� �と戦争の両者は歴史に繰り返し登場してきた」という言葉でゲディスは基本的職業の解説を閉じています。

 

 

後年ゲディスが、無政府主義者の地理学者エリゼ・ルクリュ(1830 –1905)と共闘することになる最初のきっかけを与えたのは、クロポトキン(1842-1921)であったのかもしれません。

新婚早々のゲディス夫妻がプリンセス・ストリートの高級住宅街からジェームズ・コートのスラムに引っ越すと、クロポトキンはロンドンからエジンバラに直行してかれらの新居を突然訪れています。ボードマンは、クロポトキンは新居に入ると直ちにピアノに向かい『インターナショナル』などの革命歌を弾き語りしたというジョン・ライリーの証言を紹介しています

スラム街にピアノというのも奇妙な取り合わせですが、ゲディスは妻アンナの音楽的才能に自分に欠落している何かを感じ取っていたようで、子供たちすべてに何らかの楽器の演奏を学ばせています。

クロポトキンはロンドンに帰るとすぐに(1886年の4月)同志であるルクリュに次のような手紙を送っています。

 

四年前に、あらゆる境界区域を超える統計学的社会学を構想したあのエジンバラの若い先生は、結婚したばかりですが自分の住居を捨てて労働者の住むひどく粗末なアパートに引っ越しました。どこにでも形は違っても似たようなことがあるものですね。これは完璧な再覚醒です。

 

ゲディスがスラムに居を構えたのはスラムの「地域調査」のためであり、その科学的な調査に基づいてスラムの改革を行うためでした。これはルクリュの思想にかなり近いものです。

クロポトキンがルクリュにかれの存在を知らせたのも偶然ではないでしょう。かれはゲディスの行為を「完璧な再覚醒」と賞賛しています。

アレックス・ロウは、ゲディスは幼少期の「半田舎暮らし」のヴァレー・セクション体験にもよるが、ルクリュの地域に根ざす視点、「地域主義」に強い影響を受けたと指摘し、「ゲディスは、調査に裏付けられた行為のための整合的な単位としての『地域のヴァレー・セクション』というルクリュの着想に分析的に魅了されていった」と述べています

 

2-1 地人論

 

ルクリュは日本にはあまり紹介されることはなかったようですが、最晩年の六巻からなる大著『人と大地』(1905年)の第一巻が遅ればせながら昭和十八年(1943年)に石川三四郎によって『世界文化地史大系』と改題されて翻訳されています。その訳者の序によると、この書は昭和五年(1930年)に『地人論』と題して刊行したが、それはルクリュ生誕百年を祝すためで拙速に過ぎたので改訳して出版すると断っています。

日本では、『地人論』という題名の書物は、ルクリュに先立って1897年に内村鑑三によって出版されています。奇しくもこの書は1894年に『地理学考』として出版されたものを改題したもので、内村は「余は久しく本書の改題に躊躇(ちゅうちょ)せり、然れども二三親友の勸誘(かんゆう)に從ひ、(つい)に先哲アーノルド・ギヨー氏の著書に(なら)ひ、其名を()りて此書に附するに至れり」と再刊の自序で述べています。ギヨー氏の原著名は「大地と人」ですから「地人論」は適訳だと思いますが、ルクリュの原著名は逆になっています。石川が最初にそれを「地人論」と題したのはすでに「地人論」という名称、テーマが定着していたからでしょう。内村は次のような興味深い指摘を行っています。

 

地理學を學ばずして政治を談ずる(なか)れ、何となれば汝は月世界の政治を談ずるものなればなり、……即ち地理學なしの政治論は(あり)て無きもの、(かたち)なきもの、實なきもの、夢、空想、幻なればなり、……吉田松蔭が其僕某に告げし言は真理にして事賓なり、彼は曰く、

 

地を離るれば人なし、人を離るれば事なし、故に事を成さんと欲する者は(まさ)に地理を究むべし

 

と、是彼の政治論の時の空漠たる政治論に優りて健全にして深遠なりし理由なり

2012年5月8日火曜日


皆さんは、本格的な就活スタートに向けてどんな準備をしていますか。

大学のガイダンスに出席して、自己分析をしてESを書いてみたり、SPIの問題集に取り組んだりとそんな人もいれば、教育研修会社の就活セミナーに参加して模擬面接をしてきましたとか、あるいはインターンシップに登録してすでに採用担当者とコンタクトをとっている人もいるかもしれません。また、日経新聞を読み始めましたとか、OB・OG訪問をしてみましたとか。そんな先をいくような準備ではなく、リクルートスーツを買いましたという就活生は多いかもしれないね。

毎年この時期になると、就職活動に必要なグッズについて、たくさんの相談が寄せられます。その代表的なものが「就活ノート」 や「ビジネスバッグ」ですが、今年は特に「スマートフォン」が仲間入りをしそうです。でも、そんな流行ものだけではなく、実際の就活の場面で役立つ基本的なおすすめアイテムを紹介したいと思います。

①就活ノートは2冊用意

2012年5月6日日曜日


バイオグラフィー

誕生: 11月 20, 1948 Stephens, AR

ジャンル: クラシック

活動期間: '80s, '90s, '00s

2012年5月5日土曜日



.......先進国であるシンガポールに住むことは簡単ではありません。
.......しかし、事業を行うという形態であれば比較的容易に滞在ビザを取得する事ができます。
.......また不動産を購入することで リタイアメント・ビザ を取得することも可能です。

シンガポールは、海外生活に慣れていない日本人がもっともストレスなく暮らせる外国
 ○とにかく治安がよい。 南国リゾートの雰囲気で、緑も多く快適である。
 ○日本の物資が豊富、また「食」については日本食、中華のみならずバラエティー豊か。
 ○簡単な英語で生活でき、国民が日本人に対して寛容である。

すばらしく有利な「税」の環境
 ○所得税は最高税率でも20%。 1000万円程度であれば実質税率は 9% 以下。
 ○相続税・贈与税がなく、また 金融資産の運用益にも税金がかからない。
 ○法人所得にかかる税金も 2000万円程度でも 6-8%程度。
 ○株主配当には実質課税されないので、所得を法人と個人に振り分けることで 3000万円の
    所得があっても 税金は7%程度に抑えられる。

すばらしく整った事業環境
 ○会社法、会計制度が シンプル 且つ 合理的であり、契約に関する安心感も高い。
 ○世界の金融センターとしての金融インフラが活用できる。
 ○空港アクセス、周辺国への渡航の容易さ、国内交通の便利さと言った交通インフラがよいこと。
 ○ITの環境、通信環境、ロジスティックなどのビジネス・インフラも十分に整っている。
 ○国民はみな論理力が高く、とにかく優秀な人が多い。

こどもを国際人として育てられる環境
 ○全般的に教育水準が非常に高い。
    (インターナショナル校より ローカル・スクールの有名校のレベルの方が高い)
 ○世界で通用する人間を育てるという観点で 論理力を養うことに重点が置かれている。
 ○英語、中国語が学べる環境であること。
    (ただし 教育水準が高すぎるのでかなり幼少のうちから入らないと親が大変)

実態として、日本での個人所得税の高額納税者や、高額収益の法人の経営者が、
税の観点でシンガポールに移り住む方が多いですが、 結果的にシンガポールの事業環境や
生活環境の点でも皆さん満足し、滞在をエンジョイされております。

シンガポールに居住した場合の個人所得の税メリットや、シンガポール生活・事業環境については、
下記のウェブページをご参照ください。

   シンガポールの個人税のご案内 ⇒
   シンガポールの生活環境のご案内 ⇒

2012年5月3日木曜日


[TV][フィギュアスケート] 妙に賢い男の子

四大陸フィギュア選手権も終わり、銀メダルという快挙を若干16歳にして成し遂げた羽生結弦君。ちょこちょこテレビ局にも呼ばれているようですが、悉く見逃してる私・・・(汗)。何よりもショックなのは、昨日の21時頃、仙台駅に凱旋(単に戻ってきただけだけど)し、母校の東北高校の生徒達に温かく迎えられた、って。ああ〜、その少し前に駅付近を歩いていた私は、かなりのニアミスに呆然。

いつかスケート会場で、できれば競技で羽生君を見たい!という夢がありますが、全然地元の利を生かしてないのがちと残念でございます。羽生君出ないし、東京まではお金かかるし、男子の試合は平日だから・・・とテンション下がって、世界選手権のチケットをとらなかったのも今となると少し後悔。日本勢がこんなに強い時代の自国開催の世界選手権は、もう見られないかもしれないなあ・・・と思ってきたりして。覚悟はしているものの、大輔君も引退説出てますし。

さて、そんな呟きはともかく、ちょっと前に地元で放送された羽生君のスペシャル番組をちょっとご紹介します。さすがに詳細に語ると終わらないのでざっくりと(笑)、ちょこちょこ勝手な自分の感想を入れてたりします。きっと熱狂的ユヅルファンの方がとっくにアップしていたり、どこかに動画も転がっているとは思うのですが(ただ割とすぐに削除されてしまうようです。)、一応ね。

まずは、2010年11月19日放送『ワンダフル東北』(NHK東北 45分)。これは、今年の1月10日に全国ネットで放送された『もっと強く 〜羽生結弦 16歳の挑戦〜』(NHK総合 30分)とほぼ同じ内容でした。『ワンダフル東北』は、加藤夏希さんと本田武史君が司会で、普段羽生君が練習しているリンクの上に特設ステージを作って、羽生君にインタビューしてるシーンがありましたし、『もっと強く』の方は全日本選手権での活躍を追加していました。

シニアデビュー・NHK杯の結果について

 ユヅル「結果自体はそれほど満足してないけど、演技は結構良かったので満足してます。でも緊張しましたよ」


 母校・東北高校にて、お弁当の時間

 甲子園に何度も代表出場するような野球の名門校であり、'88長野五輪の時は、荒川静香・本田武史・田村岳斗という高校生スケート選手が代表になったのを覚えてます。歴史は繰り返すのね。

  • ナレーション「成績はトップクラス 数学と理科が得意科目」「好物は唐揚。それも母親の唐揚でないとダメ。 → お弁当をモグモグ食べる羽生君(只今育ち盛り!)が映ります。
  • クラスメート達の羽生結弦談

 同級生(女2人)「真面目、おもしろいよね」「3回転ジャンプだよね。やって!って言ったら、廊下でやってくれたの。クルクルクルって(笑)」

 同級生(男)「いつも羽生君とは切磋琢磨っていうか〜テストの点数とか。いつもだったら羽生君に勝っちゃうんすけど〜、羽生君にこの頃は負けちゃってもう自分ダウンみたいな〜。」

2012年5月2日水曜日


全般 危険性又は有害性等の調査等に関する指針 [132KB] 指針 厚生労働省 H18.3
全般 危険性又は有害性等の調査等に関する指針について
( 本文 [338KB]、 別添1 [18KB]、 別添2 [186KB]、 別添3 [28KB]、 別添4 [61KB]、 別添5 [25KB])
通達 厚生労働省 H18.3
全般 危険性又は有害性等の調査等に関する指針・同解説 [485KB] 解説 厚生労働省 H18.3
全般 危険性又は有害性等の調査等に関する指針 リーフレット 厚生労働省 H18.3
全般 リスクアセスメント担当者養成研修受講者用テキスト テキスト 厚生労働省 H24.2
全般 リスクアセスメント担当者養成研修講師用テキスト テキスト 厚生労働省 H24.2
全般 リスクアセスメント実施事例集 事例集 厚生労働省 H24.3
全般 労働災害防止のために〜労働者の安全と健康の確保は事業者の責務です〜
 (小規模事業場向けのリスクアセスメントの実施方法を含む)
リーフレット 厚生労働省 H23.2
全般 事例でわかる職場のリスクアセスメント
リーフレット 労働基準局安全衛生部安全課 H23.2
化学物質 化学物質等による危険性又は有害性等の調査等に関する指針 [139KB] 指針 厚生労働省 H18.3
化学物質 化学物質等による危険性又は有害性等の調査等に関する指針について
( 本文 [189KB]、 別添1 [56KB]、 別添2 [139KB]、 別添3 [65KB]、 別添4 [141KB]、 別添4-2 [133KB]、 別添5 [122KB])
通達 厚生労働省 H18.3
化学物質 化学物質等による危険性又は有害性等の調査等に関する指針 リーフレット 厚生労働省 H18.3
化学物質 健康障害防止のための化学物質リスクアセスメントのすすめ方
( 1〜15ページ [494KB]、 16ページ [198KB]、 全体版 [520KB])
リーフレット 中央労働災害防止協会 H21.3
化学物質 化学物質リスクアセスメント事例集(平成20年度版)
( 1〜18ページ [421KB]、 19〜27ページ [499KB]、 28〜29ページ [397KB]、 30ページ [2,344KB]、 31ページ [1,156KB]、 32ページ [824KB]、 33〜45ページ [449KB]、 46ページ [435KB]、 47〜48ページ [455KB]、 49ページ [396KB]、 50〜55ページ [484KB]、 56〜58ページ [471KB]、 59ページ [1,088KB]、 60〜70ページ [496KB]、 71〜81ページ [441KB]、 82ページ [457KB]、 全体版 [5,847KB])
事例集 中央労働災害防止協会 H21.3
化学物質 化学物質リスクアセスメント事例集(平成21年度版)
( 表紙・はじめに・目次 [331KB]、 爆発・火災防止関係 [1,200KB]、 健康障害防止関係 [1,043KB]、 全体版 [1,684KB])
事例集 中央労働災害防止協会 H22.3
労働衛生 化学物質・粉じん、騒音、暑熱に関するリスクアセスメントのすすめ方〜鋳物製造業を例として〜
( 1ページ [585KB]、 2〜4ページ [546KB]、 5〜8ページ [523KB]、 9〜10ページ [572KB]、 11〜12ページ [459KB]、 13〜15ページ [446KB]、 16〜19ページ [451KB]、 20ページ [639KB]、 21〜24ページ [479KB]、 全体版 [1,731KB])
リーフレット 厚生労働省 H19.3
機械 〜機械メーカー向け〜機械ユーザーの機械危険情報の提供に関するガイドライン
目次 [448KB]、 ガイドライン [1030KB]、 参考資料 [1130KB]、 全体版 [1530KB]
マニュアル 厚生労働省 H23.3
機械 機械設備のリスクアセスメントマニュアル(機械設備製造者用)
( 1〜4ページ [497KB]、 5ページ [599KB]、 6〜10ページ [495KB]、 11〜20ページ [469KB]、 21〜28ページ [505KB]、 29〜35ページ [502KB]、 36〜38ページ [499KB]、 39ページ [534KB]、 40ページ [600KB]、 41ページ [599KB]、 42ページ [630KB]、 43ページ [479KB]、 44〜45ページ [424KB]、 46ページ [479KB]、 47ページ [420KB]、 48ページ [601KB]、 49ページ [480KB]、 50ページ [637KB]、 51ページ [600KB]、 52ページ [600KB]、 53ページ [599KB]、 54ページ [600KB]、 55ページ [598KB]、 56ページ [600KB]、 57〜58ページ [303KB]、 59ページ [600KB]、 60ページ [472KB]、 61ページ [646KB]、 62ページ [599KB]、 63〜65ページ [428KB]、 66ページ [600KB]、 67〜69ページ [428KB]、 70ページ [478KB]、 71ページ [427KB]、 72〜75ページ [485KB]、 76〜77ページ [487KB]、 78ページ [524KB]、 79〜80ページ [348KB]、 81ページ [523KB]、 82ページ [607KB]、 83〜85ページ [351KB]、 86ページ [523KB]、 87ページ [688KB]、 88ページ [652KB]、 89ページ [480KB]、 90ページ [666KB]、 91ページ [652KB]、 92ページ [655KB]、 93〜96ページ [489KB]、 97〜101ページ [494KB]、 102ページ [600KB]、 103〜104ページ [302KB]、 105ページ [599KB]、 106〜107ページ [480KB]、 108ページ [599KB]、 109ページ [600KB]、 110ページ [479KB]、 111ページ [422KB]、 112ページ [645KB]、 113ページ [478KB]、 114〜115ページ [492KB]、 116〜118ページ [507KB]、 119ページ [472KB]、 120ページ [84KB]、 全体版 [2,173KB])
マニュアル 中央労働災害防止協会 H22.3
機械 機械設備のリスクアセスメントマニュアル別冊(機械設備製造者用) [552KB] マニュアル 中央労働災害防止協会 H22.3
機械 機械包括安全指針に基づく機械設備に係る表示制度及び「使用上の情報」の提供を促進するための制度の検討に関する報告書 [638KB] 報告書 中央労働災害防止協会 H22.