パトリック・ゲディスの「地人論」
1-1「ヴァレー・セクション」教育
ゲディスのモットーである「生きることによって学ぶ」ことを子供たちに教えるにはどうしたら良いのか、かれは実行不可能とも思える以下のような「参画学習」を提案し、実行させています。
最も初期の幼少期から自分の回りの世界、現実の世界を発見すること。山から海までに何があるのか、山地の村落から海岸の都市まで、鉱夫から漁師まで、人間の職業や文化にはどんなものが含まれているのか、それらを知ることです。歴史、芸術、文学を学ぶことです。まずは、じぶんの「ヴァレー・セクション」に今住んでいる人々の生と仕事に、その後、過去の記録に学ぶことです。直接戸外で観察し、次いで図書館で読むこと。人々・仕事を単に観察するというのではなく、山から海に至る様々な生に参画すること。しばらくの間、樵、羊飼い、漁師、農民になることです。
「しばらくの間、樵、羊飼い、漁師、農民になる」というのは信じ難いことに文字通りの参画学習の提案なのです。なったつもりで考えるということではありません。
長男のアラスターはこのような「ヴァレー・セクション」教育の模範生でした。かれは羊飼い、ニシン船のコック、石工として働き、大富豪の社会主義者ジョセフ・フェルスの実験農場で実践的農業を学びました。人柄と才能に惚れたフェルスがかれを養子にして富を継がせようと願ったと言われています。15歳でミルポート動物学研究所の実験助手、16歳で救命ボートの舵手の国家試験に合格、軍馬の調教等々。中でも特筆すべきなのは1909年、18歳の夏の北極探査でしょう。ウィリアム・S・ブルース博士の助手としてスピッツベルゲン近辺の島の地図作製の手伝いをしました。今でもスピッツベルゲンにはゲディス山とアラスター岬の名が残されているということです。
ゲディスはまた「子どもの教育には二つの主要な仕事があります。一つは庭を作ることであり、一つは箱を作ることです。……真実の手、真実の眼を手に入れるのは、早い時期でなければなりません。」とも述べています。早い時期とは「手と脳のセンターがまだ十分柔軟に順応できる時期」で、ルネッサンスの巨匠の場合と異なり、現代人の場合、「脳と手の有機的潜在的機能の高度な技能を手に入れるには生理学的に遅すぎる」とも言っています。アラスターもまた確信犯的登校拒否児童となって「庭作り」と「箱作り」に専念させられました。
1-2 ヴァレー・セクションの基本図式
ヴァレー・セクションの図式には色々なヴァージョンがありますが、その最も基本的なものは以下の図式であると考えられます。
図1)1904年版、ヴァレー・セクション
ゲディスの評伝を出版したフィリップ・メレは、1904年、「ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスでの講義でゲディスは地域調査への接近の応用を別の図式の助けを借りて描き出しています。それがこのヴァレー・セクションです」と述べて上記の図式を図4として掲載しています。
デザイナーとしてもゲディスに助力したメレの記憶を信じて、このヴァージョンをわたしは「1904年版」と呼んで差し支えないのではないかと思います。
さてそうなると、ヴェルターが、1909年に公刊されたものとしている「ヴァレー・セクション」のヴァージョンは、それより後のものということになります。
図2)1909年版、ヴァレー・セクション
両図の大きな違いは、「庭師」がいなくなってしまったという点にあります。また背景の農場にも相違が見られます。1904年版では二つの農具の背景は同じでたわわに実る畑が描かれていましたが、ここではそれらの背景が描き分けられています。
1-3 八つの象徴的な道具
「1904年版、ヴァレー・セクション」の図式に描かれている八つの象徴的な道具について見てみましょう。1909年版も道具の描写はほぼ同じです。
図3)八つの象徴的な道具
一番左手には、鉱夫が堅牢な鉱山の掘削に用いる両刃の鶴嘴が描かれています。
その隣にあるのは樹木の伐採や薪割りに用いる鉞です。次は狩猟に用いる弓矢、続いて羊飼いの杖が描かれています。この杖の先は湾曲しています。司教杖はこの形状を継承したものです。羊だけでなく人をも導く杖だということになります。次の三つは農機具です。最初は荒れ地を耕すための堅牢な開墾鍬、次のシンボルはプラウと呼ばれる西洋鋤です。日本の鋤とは形状が異なっています。最後は庭園や菜園で用いられるシャベルです。右端に最後に描かれているのは漁師の網です。これら八つの道具は、最も素朴で基本的な職業のシンボルとしてこの図に描かれているのです。
1-4 ゲディスによる基本的職業の詳細な解説
1923年のニューヨークでの講演で、晩年のゲディスは自らこれらの職業について語っています。
1)鉱夫
かれは「最初はフリントの鉱夫(サフォークのブランドンで。その薄削されたフリントの交易は先史時代にまで遡るもの)」と述べています。フリント(燧石)は現在では辞書などでは火打石と訳されています。しかし火打ち金が存在していなかった石器時代においては堅い上に加工しやすいフリントはあらゆる石器の材料として生活必需品であったのです。
2)樵
森の住人、樵は鉞で森を開拓した「文明の主要なリーダー」と呼べるかもしれないとゲディスは述べています。かれは「建築業者、船大工、家具メーカー、柵作り、築城家」ともなる最初のエンジニアだとも言っています。
3)猟師
つぎに来るのがハンターです。北極のエスキモーからオーストラリアの原住民まで現代の狩猟民族は文明的で平和を好む民族であることを留保しつつ、ゲディスは西洋における猟師はそうではないと述べています。西洋のハンターは「人間の狩人」となったと言うのです。かれらは王、貴族、統治者となり、戦争を仕掛ける者、戦争のリーダーになります。スポーツやゲームを彼らが生み出したのも偶然ではなく、若者の軍事教練のためであったとも指摘しています。
4)牧人
羊飼いは、そのような好戦的なハンターの対極に位置づけられています。最盛期の短いハンターに対して生を上手に管理して長老社会を生み出した羊飼いたちは、非寛容な戦争という手段ではなく、辛抱強い外交を通じて紛争を解決します。かれらは世俗的な権力よりも遥かに高い精神的な力を希求します。
ゲディスは「良き牧人」の現代のイメージは子羊を肩にかつぐ「牧人アポロンに由来する」と述べています。バティカン美術館の「良き牧人」の彫像はキリストと同定されるのが一般的ですが、「良き牧人」の図像自体は紀元前6世紀のアテネにまで遡ることができます。
さらにゲディスは、「旅人の精神、ユダヤの理想主義と学識、ギリシャの哲学と精緻さ、ローマの市民性」を自らの内に体験統合して布教の旅を貫徹した「タルスス出身の聖パウロ」を理想的牧人と看做してもいます。
さて次に続く三つの職業に関してはどうでしょうか?
1904年版では、二種類を「農夫」最後を「庭師」としていましたが、1909年版では、三種類の農具を纏めて「農夫」のシンボルとし、「庭師」の項目は消えました。最終的な1930年の総括的図式では、「貧農」、「豪農」、「庭師」と細分化したゲディスですが、1923年の講演においても庭師の項目はありません。
5)貧農
かれは、「貧農(the poor peasant)」 と「農夫(the farmer)」という二つの項目を立てています。普通、ピーサントは「小作人」、ファーマーは「農夫」一般か「自作農夫」と考えられますが、ゲディスの解説では違っています。かれは、「貧しい農夫」というのは、農園の労働者や小作人のことではなく、スコットランドなどの「高地の小自作農夫」のことだと断っています。小さいながら自営の農業を営んでいる人たちです。麦には適さず、「イバラとアザミにしか適合しない大地」を所有しているかれらは荒れた大地を耕すという最も過酷な労働を強いられ、極貧の中で空腹に泣きながら節約して蓄えておいた種を春に蒔く。ゲディスは「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」という詩篇、126:5を引用しています。
貧しいが故に用心深く節約に励み相互扶助によって生き延びてゆく「この社会的タイプの人々によって銀行と保険会社が創設された」とゲディスは指摘しています。
「喜びの声をもって刈り取る」かれらには、この地域特有の歌と物語、音楽と舞踊に恵まれています。牧草地と麦畑の間に寒々と横たわる荒れた高地は、牧人と農夫を分離すると同時に結びつけてもいて、両者に高度の文化的刺激を与えているとゲディスは賞賛しています。
6)農夫
かれは「つぎに金持ちの農夫に移りましょう」と語りだします。農夫と題されているこの項目は、1930年の図式では「豪農」と記されています。
かれらは「かつて大草原であった平野の深くて肥沃な耕地」を所有し、「撓わに実る小麦」を収穫します。それはかれらにおいしい白いパンを供給しますが、売ることのできる余剰も与えます。孤立した掘建て小屋ではなく、村落や市場の立つ町が形成され、平和と安全のために壁に囲まれた都市が出現してきたのも、誰よりもこれら豪農の要請するところでした。また土地の所有権や商業権を護るために法の専門家も登場して来ることになります。
酒場やクラブでの活発な政治論議を生み出し、かれらの利権を護る政治家を輩出させます。
「ビールやワインの醸造技術に沿って、社会の立憲的進化が発展した」という冗句をゲディスは紹介しています。
牛馬を使役する農法は、かれらに余暇をもたらしました。その余暇が庭作りに費やされることになります。1909年版と同様に農夫と庭師の区別はここでも消えています。
農業についての興味深い解釈が、この講演の序論部分で行われています。
欧米における小麦栽培は、荒れ地を耕すことのできる屈強な男性が誰に邪魔されることもなく一人で行うことができ、女子供は手伝うことができても添え物に過ぎない、と指摘し、ゲディスはここに古代ローマから現代のアメリカに至る個人主義と男性中心主義の基盤を見いだしています。「もしわたしたちが東洋人で、米を栽培するとしたら立ち位置は全く異なるものとなるでしょう」とゲディスは言います。米の栽培は単独で勝手に開始することはできません。まず「その地区の渓谷の給水を制御して耕作者の水田に十分行き渡るように調整するための一つの大きな給水委員会」が形成される必要があるからです。個人ではなく、共同体の活動が先行することになります。
さらに小麦栽培には屈強な男性の力が不可欠でしたが、稲作農法は「女性だけでなく小さな子供や祖父母たちも」その役割をそれぞれ果たすことができます。ここでは男性の優位は消滅しています。
ゲディスがこのような農法比較を例示したのは、「ヴァレー・セクションが、調査の基礎」であり、「その場所とそこで行われる仕事」がそこに住まう「人々の流儀や制度をいかに深く規定」しているかを発見することができるということを示すためでした。
7)漁師
さて最後の漁師についてのゲディスの解説に移りましょう。
人類学者によると、河川での漁の仕事を創始したのは女性であり、女性たちは男性と対等の独立独歩の地位を手にしていたと言う説をゲディスは紹介しています。かれは「現代のフェミニスト運動が北海周辺から始まり、次第に内陸へと展開して行ったのも偶然ではない」と補足しています。しかし男性たちはニシンやタラを求めて海に乗り出してゆきます。海上の危険で過酷な環境の中で議論の余地のない命令系統が確立されてゆきます。「海上の漁師は、陸上の隊商を再現し、交易冒険団、旅客船団、移民輸送、郵便船」とも化してゆき、海のハンターとして武装したかれらの「船乗り稼業と海賊行為」は見分けがたくなり、ついには「海軍」へと収斂されてゆくとゲディスは述べています。「貿� �と戦争の両者は歴史に繰り返し登場してきた」という言葉でゲディスは基本的職業の解説を閉じています。
後年ゲディスが、無政府主義者の地理学者エリゼ・ルクリュ(1830 –1905)と共闘することになる最初のきっかけを与えたのは、クロポトキン(1842-1921)であったのかもしれません。
新婚早々のゲディス夫妻がプリンセス・ストリートの高級住宅街からジェームズ・コートのスラムに引っ越すと、クロポトキンはロンドンからエジンバラに直行してかれらの新居を突然訪れています。ボードマンは、クロポトキンは新居に入ると直ちにピアノに向かい『インターナショナル』などの革命歌を弾き語りしたというジョン・ライリーの証言を紹介しています。
スラム街にピアノというのも奇妙な取り合わせですが、ゲディスは妻アンナの音楽的才能に自分に欠落している何かを感じ取っていたようで、子供たちすべてに何らかの楽器の演奏を学ばせています。
クロポトキンはロンドンに帰るとすぐに(1886年の4月)同志であるルクリュに次のような手紙を送っています。
四年前に、あらゆる境界区域を超える統計学的社会学を構想したあのエジンバラの若い先生は、結婚したばかりですが自分の住居を捨てて労働者の住むひどく粗末なアパートに引っ越しました。どこにでも形は違っても似たようなことがあるものですね。これは完璧な再覚醒です。
ゲディスがスラムに居を構えたのはスラムの「地域調査」のためであり、その科学的な調査に基づいてスラムの改革を行うためでした。これはルクリュの思想にかなり近いものです。
クロポトキンがルクリュにかれの存在を知らせたのも偶然ではないでしょう。かれはゲディスの行為を「完璧な再覚醒」と賞賛しています。
アレックス・ロウは、ゲディスは幼少期の「半田舎暮らし」のヴァレー・セクション体験にもよるが、ルクリュの地域に根ざす視点、「地域主義」に強い影響を受けたと指摘し、「ゲディスは、調査に裏付けられた行為のための整合的な単位としての『地域のヴァレー・セクション』というルクリュの着想に分析的に魅了されていった」と述べています。
2-1 地人論
ルクリュは日本にはあまり紹介されることはなかったようですが、最晩年の六巻からなる大著『人と大地』(1905年)の第一巻が遅ればせながら昭和十八年(1943年)に石川三四郎によって『世界文化地史大系』と改題されて翻訳されています。その訳者の序によると、この書は昭和五年(1930年)に『地人論』と題して刊行したが、それはルクリュ生誕百年を祝すためで拙速に過ぎたので改訳して出版すると断っています。
日本では、『地人論』という題名の書物は、ルクリュに先立って1897年に内村鑑三によって出版されています。奇しくもこの書は、1894年に『地理学考』として出版されたものを改題したもので、内村は「余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド・ギヨー氏の著書に倣ひ、其名を籍りて此書に附するに至れり」と再刊の自序で述べています。ギヨー氏の原著名は「大地と人」ですから「地人論」は適訳だと思いますが、ルクリュの原著名は逆になっています。石川が最初にそれを「地人論」と題したのはすでに「地人論」という名称、テーマが定着していたからでしょう。内村は次のような興味深い指摘を行っています。
地理學を學ばずして政治を談ずる勿れ、何となれば汝は月世界の政治を談ずるものなればなり、……即ち地理學なしの政治論は有て無きもの、像なきもの、實なきもの、夢、空想、幻なればなり、……吉田松蔭が其僕某に告げし言は真理にして事賓なり、彼は曰く、
地を離るれば人なし、人を離るれば事なし、故に事を成さんと欲する者は應に地理を究むべし
と、是彼の政治論の時の空漠たる政治論に優りて健全にして深遠なりし理由なり、
それffieldのための提案を記述する方法
ここでは政治学的地理学が語られています。吉田松蔭の「地、人、事」という三対は、ル・プレやゲディスの「場所、人々、仕事」と全く軌を一にしています。「事を成さんと欲する者」は洋の東西を問わず「考えを一つ(シュン・テーシス)」にするもののようです。
歴史的地理学に関する言及もあります。
地理學と歴史とは舞臺と劇曲との關係なり、地は人類てふ役者が歴史てふ劇曲を演ずる舞臺なり、
ここでも、舞台(地)と俳優(人類てふ役者)とそこで演じられる演劇(歴史てふ劇曲)という比喩によって「場所、人々、仕事」の三者の総合的でインタラクティヴな関係性を捉える事の重要性が語られています。
「歴史は時間の地理にして地理は空間の歴史なり」というルクリュのモットーとも重なり合っています。
聖書学者として名をなした晩年の内村は、自分の全集が刊行されることになり、自著の『地人論』を再読して、次のような繰り言を1919年の日記に記しています。
六月十七日(火)陰鬱 『地人論』の訂正に從事した、二十五年前に成りし自分の著述を讀んで尠からず教へらるる所があつた、……今に至つて地理學者とならずして聖書學者となりし事を悔いざるを得ない、
年老いて日記に「陰鬱」と記した内村鑑三も若き日には「事を成さんと欲する者」であったのでしょう。「地人論」では、「英雄出所山水好、天眞爛漫たる偉人は多く山より出でて平地に尠し、見よ幾多の剛勇なる世界人物は岩石多きスコットランドの産出にかゝるを」とも述べています。ヴァレー・セクションにおいて「豪農」の住まうイングランドの「平地」ではなく、「貧農」の大地「岩石多きスコットランド」の高地から幾多の俊英を生み出したことをゲディスも誇らしく語っていました。
ゲディスは、1905年にルクリュへの追悼文「偉大なる地理学者:エリゼ・ルクリュ」を発表しています。そこでかれはルクリュの業績を振り返るとともに自身との関係についても説き及んでいます。ゲディスはルクリュの「社会地理学」に共鳴し、1900年のパリの万国博覧会でルクリュの設計した巨大な地球儀博物館の展示を共働で計画し、前年には渡米して資金集めための連続講演会を開催して各地を転々としました。アウトルック・タワーの一階にはルクリュの大きな地球儀を置いていたほどです。しかしゲディスの思想をルクリュは直ちに容認した訳ではなかったようです。地道な二人の真摯な共働を通じて、
近年になってやっと筆者(ゲディス)の社会的かつ地域的な地理学である「アウトルック・タワー」を、かれ(ルクリュ)自身の巨大な地球儀の宇宙的提示に対する、人間的補完および正当な付属物として、暖かく採用してくれるようになりました。
と、ゲディスは書いています。それでは「社会的かつ地域的な地理学としてのアウトルック・タワー」とは、ゲディスにとってどのような意味を持つものであったのでしょうか? ゲディスは1892年に、ショートの天文台を購入して、アウトルック・タワーに改装しました。
2-2 「見ることを学ぶ」
ゲディスは言います。
わたしは沢山の都市をぶらついてきました。しかしここエジンバラほど塔に相応しい場所を見いだすことはできませんでした。
エジンバラのキャッスル・ヒルからは、市街とそれを取り巻く荒涼たる自然を一望のもとに見渡すことができます。ここには「自然的な世界と社会的な世界の両方を見晴らす完璧な眺め」が存在するのです。
当時のアウトルック・タワーは現在のものとはかなり異なっています。1906年に、妻のアンナらの編集によって、イラスト付きのゲディスによるガイドブック「初めてのアウトルック・タワー訪問」が出版されています。
図4)アウトルック・タワー
ボードマンは、それに依拠して、そこでのゲディスの講義風景を再構成しています。
ゲディスは、エジンバラの大通りロイヤル・マイルに面するスラム化したアパートを改造して学生寮にしました。そこに住まう学生たちをゲディスがアウトルック・タワーに連れてゆくという想定です。
「想像してみて下さい。息を切らした寮生たちを引き連れてロイヤル・マイルを駆け上がってゆく教授を」とボードマンは、書き出しています。彼の再構成に依拠して、当時の物見の塔の状況を垣間見ることにしましょう。
すでに息切らしていた学生たちは更に、五層の物見の塔(アウトルック・タワー)の急で狭いロープの手摺の付いた木製の螺旋階段を屋上まで一気に駆け上らされるのです。
屋上は、エジンバラの市街を一望できるパノラマ・バルコニーになっています。
通りからここまで何故こんなに急がせるのかと君たちは訝っていることでしょう。単にそれは、登るという運動が血の巡りを良くするからです。頭の中のもやもやをすっきりさせて、この眺望の知的なスリルを味わうために生理学的に脳を整えるためなのです。
この屋上は、市街とそれを取り巻く荒涼とした自然、言わば「外の世界」の眺望を与えるためのものであり、「幾何学者の眼を通して世界を見る」ことを学ぶ場でもあります。
「大地と人」を「一望のもとに見晴らすこと」によって、「幾何学的に見ること」の訓練は開始されるのです。しかしそれには留まりません。
ゲディスはまた狭い螺旋階段に戻るように指示します。そして屋上の小塔の円蓋(ドーム)の部分にまで観客たちは連れ込まれます。その円蓋の部分は一つの小さな窓によってぼんやりと照らされていますが、ゲディスはすぐにその窓を閉めてしまいます。光に照らされた世界から、暗闇の世界へと見る者は誘われるのです。ゲディスは言います。
これはカメラ・オブスクーラすなわち暗い部屋です。実際にはみなさん方は巨大な写真器の蛇腹の中にいるのです。
学生たちは、「ドームからコードで吊るされた白い円卓」のまわりを取り巻きます。その円卓の表面には、エジンバラの市街がドームの先端に据えられたレンズを通して投影されています。ゲディスがレバーを動かすとその風景も変化します。そこに映し出された市街の動画は、屋上のパノラマ・バルコニーから眺めたのと同じ光景であるはずなのに、「魔術的に異なる」ものとなっています。訝る学生たちにゲディスは、次のような解説を与えます。
これはとても単純なものです。ドームの頂点にある鏡が、わたしがこのレバーを回して向けた方向のイメージを捉えて、レンズを通してそれらをここに投影しているのです。映像は、カメラにおけるフィルムのようにこの卓上に焦点を合わせています。
色彩はどうでしょう?
あなた方の眼は部屋の暗闇によってまずもって鋭敏化されています。それに、鏡は物体から直接反射される光線だけを受信します。白昼の陽光の中でわたしたちの視覚を混乱させる乱反射はここにはありません。
その結果、ここでは皆さんは新鮮な眼で、すべてのものを本当の色彩で見る事ができるのです。
ゲディスはここに投影された事物の色彩こそが本物だと述べています。ラスキンの「灰色の美学」を援用し、陽光の下ではなく薄明の中にたたずむエジンバラの風景の持つ色彩の美に言及し、「見ることを学ぶ」ことの大切さを説きます。
朝には光に照らされた古い大通り(ロイヤル・マイル)は、夕べには積年の罪と悲しみの紺青色の渓流となり、「死の谷」の眼に見える渓谷となります。
エジンバラの中央大通りは渓流に、大通りの両側に林立する高層建築は渓谷に喩えられています。ゲディスの田園の「ヴァレー・セクション」は都市にも存在するのです。明暗あいたずさえた外の世界をそのように見て取ることのできる眼を養うために、カメラ・オブスクーラという薄暗闇の世界での魔術的な体験を通して、人は『見ること』を学ぶ必要があるのです。
ボードマンは「展望台からとカメラを通してとの相補的なパノラマは、見えていない眼を再び覚醒させ再教育すること」ができると解説しています。
2-3 インルック・タワー
ここは「外の世界」から「内の世界」へと入るための準備のための通路でもありました。
この八角形の小塔には、カーテンで区切られた全くの暗闇の狭い空間があり、椅子が一つだけ置かれていました。これは内なる世界を見るための孤独な瞑想の場所です。
ゲディスは、アウトルック・タワーだけでなく「孤独な瞑想を象徴するインルック・タワー」の必要性を常に説いていました。この空間はそのための萌芽とも言うべきものでしょう。
アウトルック・タワーが「物見の塔」であれば、インルック・タワーは「心見の塔」とでも名付けうるでしょう。
アウトルック・タワーの館長であり、ゲディスの良き理解者であったエドワード・マクギーガンの助力によって、ボードマンは1935年にゲディスの「インルック・タワーのための計画」と記された紙片を発見し、コピーしたことを報告しています。それは1896年1月に記されたものです。しかしそれにはその表題以外には以下の数行が書き留められていたに過ぎません。
どの宗教も真実ではありません。それらすべてをわたしたちは過ぎ越し(outlive)てしまっているからです。
どの宗教も真実です。だからそれらすべてをわたしたちは再び生き(relive)なければなりません。
教会の中で身を潜めている臆病者と逃亡者、
その間に悪魔はかれらの都市の計画的な征服を成し遂げるのです。
この計画の詳細は不明ですが、ボードマンはマクギーガンのゲディスに関する博士論文の中でこの計画に対する「たくさんのスケッチ、思索機械、ノート」が当時あったことをかれが注記していると告げています。「思索機械」というのは、ゲディスがメキシコでの盲目体験を通じて発見した視覚的思索のための仕掛けのことで、かれがそう名付けたものです。具体的には、かれの着想を視覚化した図式の紙片のことをマクギーガンが「思索機械」と呼んでいるのです。わたしたちはその図式から多くのことを学び、新たな発想の源とすることもできます。図式は思索を生み出す機械なのです。「生の図式」もそのような「思索機械」の代表的なものの一つです。
この時点での「インルック・タワーのための計画」は実現しませんでしたが、後のインド体験を通じてより深められ変容されて行ったのではないかと推測されます。
例えば、1919年のカルカッタでの講義録「神殿都市」の中でゲディスは、「あらゆる国で宗教は生育しそして死にました。他のどの国をも凌駕して、ここ(インド)では新たな輪廻転生、時を定めて起こる化身において、宗教は常に新たに立ち上がり続けています。」と書いています。それはインド南部、とりわけタミールの文化においてであり、ゴプラムと呼ばれる極彩色の多層の門塔に注目しています。かれはそれを「進化する神殿」とも呼んでいます。
2-4 世界のインデックス・ミュージアム
アウトルック・タワーは「見ることを学ぶ」場であるとともに「世界のインデックス・ミュージアム」という重要な役割も担っています。それは五層の建築構造の各部屋と各階間の踊り場の窓に嵌め込まれた美しいステンドグラスから成っています。
最上階は、エジンバラ、以下スコットランド、言語、ヨーロッパと続き、最後は世界となっています。
学生たちは、一気に階段を上って、ゲディスの解説を聞きながら「見ることを学」び、次いでゆっくりと最上階から一階までの展示物を鑑賞しながら階段を下ってゆきます。
かれらの住まう地域であるエジンバラの部屋の床には、フォース湾地域のレリーフ・マップが置かれていました。立体的なヴァレー・セクションと言えるものかもしれません。部屋の壁には、エジンバラの過去と現在を示すスケッチ、プリント、写真などが掲げられています。他にも鉱物や産業や文化に関わる資料もあります。エジンバラの未来がどうなるのかを想定した地図や素描もあります。この都市の欠陥を改良し、その文化的芸術的遺産を最高度に保存し活用して行くためにはどうしたら良いのか、といったことについての示唆もあります。ゲディスは、「地域の調査の後には地域のサービスが来なければならない」と言っています。
ゲディス自身は、「進化する都市」の中で、エジンバラの「その下の階は、スコットランドの町や都市に割り当てられています。その次の(階)は、大英帝国、……アメリカ合衆国、カナダ等々に割り当てられています」と述べ、「言語」の階は、「英語圏」をさすことを明言しています。言語としたのは、「言語は帝国よりも遥かに社会学的社会的統一体と考えられる」からです。
ヨーロッパの部屋の最も衝撃的な展示は、三面の壁に掛かる広大な着色された図版です。それは、四世紀から十九世紀にわたるヨーロッパの覇権の浮沈を描写するもので、例えば細長い紫色の帯はローマ帝国を、黄色は侵略するゴート族を、緑はイスラム教徒を示すといった具合です。ゲディス自身は、この部屋を「歴史的研究とその解釈のための一般的導入」を目的としており、ヨーロッパというよりは、西洋文明というべきかもしれないと考えていました。膨大な新聞の切り抜きなども所蔵されていました。
一階には、ルクリュの地球儀が置かれていました。ここも「世界」とされていますがゲディスは「東洋文明と人類の一般研究」に割り当てられていると解説しています。
2-5 ステンドグラス
階段の踊り場の窓に嵌め込まれたステンドグラスの一つが、1995年の山口での講演会でマード・マクドナルドが紹介した「ヴァレー・セクション」です。
図5)彩色ヴァージョン
この彩色ヴァージョンには通常のものとはかなり異なる特徴が見られます。
まず、通常ヴァージョンの図式の下部に書かれている基本的「仕事」の代わりに、ラテン語の文字が刻印されています。一番左手の「鉱夫」や「樵」の項目に相当する部分には、『自然の小宇宙』という言葉が記され、上空には鳩よりはやや大きい二羽の鳥が舞っています。次に『人間の座る椅子』という言葉が続きます。羊の群れと農家の左半分が描かれていますので、「猟師」、「羊飼い」、「貧農」に相当する部分と考えられます。次に来る言葉は、『歴史の劇場』で、先ほどの農家の右半分と湾の開口部には都市と漁港が描かれています。「豪農」、「庭師」に相当する部分になります。ステンドグラスのほぼ中央に大きく描かれている農家が二つの部分にまたが� �ていることに注目すべきでしょう。上空には相争う二羽の猛禽が大きく描かれています。歴史の劇場は戦争の時代でもあるのです。最後の言葉は「漁師」に相当する部分に書かれた『未来の良き場所(エウトピア)』です。海上には大きな帆船が浮かび、上空では三羽の鳩が戯れています。
通常ヴァージョンが、「場所、人々、仕事」の相関関係を空間的に示すものであったのに対し、この彩色版は、渓谷から湾に至るヴァレー・セクションに歴史が重ね合わされています。空間的に対して「時間的」ヴァージョンと呼べると思います。地理学が、経済学へと展開するのに対し、これは歴史学へと展開していることになります。
次は、「賢者の石」という文字が中央に記された窓です。
図6)賢者の石
中央にエジプトのオベリスクが三つの黒い太陽と陽光を背後にして屹立し、両側でスフィンクスがそれを見守っています。オベリスクには得体の知れない絵記号が記されています。これらが何を意味するものなのかを検討してみましょう。
オベリスクの基盤には、三次元の座標軸と上下の矢印が描かれています。この座標軸は、ゲディスの「学問の分類」においても用いられた絵記号で、「純粋数学」を意味するとされていたものです。二つの矢印は上昇と下降を示しているのでしょう。「学問の分類」において用いられた絵記号はその他にも、その上の「天秤=自然科学」、さらにその上の「甲虫=生物学」と続いています。甲虫を抱くように点線で描かれていた「蝶々=心理学」は、オベリスクの右面の中段の真ん中に実戦で示されています。蝶の上には十字架、下には音譜が描かれています。それぞれ宗教と音楽を示唆するものと思われます。
距離学習失語症コース
次に見る「世紀の樹木」で使われた記号も散見されます。例えば、オベリスクの右面の下段の一番上の棒に包まれた斧は、ファスケスであり、法と正義の象徴とされていました。「法学」あるいはゲディス的には「市政学」を意味するとも考えられます。甲虫の上の剣は、「社会学」が来るべき位置ですが、どうして剣なのか分かりません。しかし社会学における世俗的な要素と精神的な要素を「学問の分類」において区別し、それらを聖書とそれを包む点線のモーゼの十戒の石版とで対比させたことを勘案すると、剣は権力者の「社会学」を指し、ファスケスはゲディスが来るべき社会学として構想していた民衆のための「社会学」すなわち「市政学」と捉えることも可能でしょう。剣とファスケスは戦いの象 徴です。これはゲディス流のアナーキズムの表明かもしれません。
「天秤=自然科学」の横の絵図は、美学が配されるはずの場所です。ゲディスの場合、美学は「見ることを学ぶ」感性の学ですから、何らかの感性と関わる物体のようですが何が描かれているのか分かりません。透視画法に関わる道具かも知れません。「学問の分類」では美学は天秤の上に掛かる点線の虹として示されていました。
その上の杖に絡む蛇は、古代ギリシャの医神アスクレピオスの杖であり「医学」を象徴するものですが、ゲディス的には「衛生学」と狭義化しても良いと思います。
真ん中の黒い太陽を背景にした部分の右側は、すでに宗教、心理学、音楽と同定されましたが、左側は、牧人の杖、すなわち人を牧す司教の杖であり、その下は蝶に対する花、最後は音楽に対するメトロノームです。
ボードマンはほとんどこれらの絵記号の詳細に触れていませんが、ゲディスが花を「教育の技術」と捉えていて、蝶が花から養分を得るように「正しい教育の働きは発展途上の魂に相応しい養分を与えることである」と考えていたとしています。
オベリスクの頂きには、上向きの矢印とメビウス状のウロボロスの蛇と思われるものが描かれています。もしそうであれば再生のシンボルと言えますが、ボードマンは「石の基盤の数学と頂点の論理学が合い携えてあらゆる学問の普遍的方法を完成させる」と記しています。「学問の分類」では論理学は数学を取り巻く幾重もの渦の点線で示されていました。その点線が奇妙な蛇状の形体でここに示されたのでしょう。
オベリスクの最下部には、「外の世界」とそれに関わる学芸が、中央部には「内の世界」とそれに関わる学芸が、頂頭部にはそれら全てを総合する学芸が描かれているということになります。
このオベリスクはゲディスの理想とする普遍的総合学の記念碑なのです。
最後の窓は、「生命の樹木」のゲディス版で「世紀の樹木」と名付けられています。
「初めてのアウトルック・タワー訪問」におけるゲディス自身の解説をボードマンが引用しています。それは次のようなものです。
大きな木と左右に広がるその枝は各々の歴史的時代の二重のアスペクトを、一方では時代的、他方では精神的なそれを暗示しています。木はその根を命の炎の中に持ち、そして絶えずそこから新たにされています。しかしその枝を取り巻く煙の渦は思想家や働く人たちを眼の見えない状態にして、かれらの先駆者の思想や作品へと続く各々の時代を隠してしまっています。枝々が社会の過去や過ぎ行く発展を象徴するのに対し、木の頂上のつぼみは開け行く未来の希望を示唆しています。二体のスフィンクスがその木を守り、永遠の謎掛けの中で上方を見つめています。かれらのライオンの身体は人間の起源が動物の世界にあることを呼び起こし、かれらの人間の顔は人間の上昇を呼び起こすものです。木の頂上の煙のレ� ��スから、永遠に更新される身体を持つフェニックスと人間の死ぬことのない魂(心)を示す蝶が流れ出ています。窓のそれぞれの側には一連の象徴が示されています。右手の象徴は偉大な歴史的時代の支配的精神力を、左手の象徴はそれに対応する時代の権力を指示しているのです。
図7)世紀の樹木
この歴史の樹木は、最下部のエジプトの大地に根ざしています。左右の一連の象徴を見てゆきましょう。
最下段の左の四角には、ダヴィデの星、右手には旧約聖書を示唆するヘブライ文字が描かれているのでイスラエルの時代であることが分かります。
次は、ガーリー船と哲学を示唆する夕暮れに飛び立つアテナイの梟からギリシャの時代ということになります。
その上の欄から象徴は二つに増えます。
左の鎖は奴隷を、SPQRは元老院とローマ市民を意味する略号です。右手のPとXの組み文字はギリシャ語のCHRでキリストを指す略号です。もう一つは、「賢者の石」にも用いられていたファルケスで法と正義の象徴です。このローマの時代の偉大な精神はキリスト教とローマ法ということになります。
その上の左には、騎士の兜と自由都市の勅許状が、右手には都市の繁栄と飽食を示唆するワインの樽と天国の鍵と教皇の宝冠の組み合わせが描かれ、中世の時代を指示しています。
次のルネッサンスの時代の欄は、左に清教徒の帽子と貴族の紋章盾、右に聖書と天国の鍵の組み合わせとギリシャ文字が示唆する古典文芸の復興が描かれています。天国の鍵は教皇から清教徒に移されたようです。
次の欄はフランス革命の時代です。左手の歯車は産業革命を交差した剣は闘争を意味し、右の四角にはフラ・ダ・リと呼ばれる白ユリの紋章が描かれています。それはフランス絶対王政を象徴するもので、その上には革命の成功を示唆するように自由の帽子が翻っています。
最後の七番目の時代はゲディスの同時代です。左の何も持たない手は無産階級、財布は資本家を示唆しています。右には、社会主義、共産主義を示す赤旗と、その上には無政府主義を示す黒旗が描かれています。
二体のスフィンクスは「賢者の石」では、ピラミッドではなくオベリスクを守る彫像のような姿でしたが、ここでは生きているように描かれ位置も中央に移されて、より重要な役割を担わされています。前者は男性的、後者は女性的に見えます。一般にエジプトのスフィンクスは男性でギリシャは女性とされることが多いのですが、ここではどうでしょうか。オイディプス王が倒したスフィンクスをソフォクレスは女性としていました。しかしゲディスはスフィンクスをいずれもエジプトの大地においています。雌雄の差別は意識されていないようです。むしろ雌雄に分化する進化以前の両性的な存在なのかも知れません。「かれらのライオンの身体は人間の起源が動物の世界にあることを呼び起こし、かれらの 人間の顔は人間の上昇を呼び起こすもの」だとゲディスは言っていました。左のスフィンクスのライオンには尻尾が描かれていますがそれ以外に際立った差異は見当たりません。強いて言えば、左手の「外の世界」や「時代の権力」の側に座すスフィンクスはより男性的であり、「内の世界」や「時代精神」の側のスフィンクスはより女性的であると言えるかもしれません。両者は分化し最終的にはヴァレー・セクションの「エウトピア」において理想的一致へともたらされるはずのものです。
ゲディスは、晩年の大著の中でスフィンクスとは名指していませんが、動物から人間への進化の神秘を示唆する最も重要で意味深いイメージを喚起し「女性の穏やかで印象的な顔立ちと優しい乳房の組み合わせ、それは静穏と尊厳に満ちあふれています、しかしそれにもかかわらずなんとそれは雌の虎の体の上におかれているのです」と描写しています。「雌の虎」という記述は奇妙ですが、ここでも人間の進化の起源としてスフィンクスを捉えていることは変わりません。まだ完全な女性へと進化していない以上、男性でも女性でもない女・雌ということでしょうか。それとは反対の、男・雄のイメージとしてゲディスはそこで男性の頭部と雄牛の体を持つミノタウロスを挙げています。
これらのイメージは単細胞から男性と女性が分化し最後に理想的一致あるいは共働へともたらされる夏目漱石も注目した「性の進化」の図式をも想起させます。
これら三つのステンドグラスは各階の展示とあいまって総合的な知の「世界のインデックス・ミュージアム」を構成します。
地域調査から始まって、一階のルクリュの地球儀を介してこのミュージアムは世界へと開かれています。
2-6 ルクリュの大地球儀
ルクリュの大地球儀は1900年のパリ万博の呼び物として「都市に地理学をもたらす」ことを目指して構想されたものですが、換骨奪胎され矮小化された商業主義的な見せ物としての天球儀に取って代わられ、ルクリュを支援して世界中を飛び回ったゲディスたちの理想も潰え去ることになりました。
それではルクリュの大地球儀とはどのようなものであったのでしょうか。国立公文書館に残された膨大な記録を繙いてアラヴォアンヌ=ミュラーは、この大地球儀についての報告を行っています。以下それに基づいて見てゆきます。
1895年最初のヴァージョンは途方もないものでした。四本の柱に支えられた高さ200メートルに及ぶ球体で、その球は縮尺1/80000直径160メートルの巨大な地球です。当初の建造予定地は、1889年の万博の呼び物であったエッフェル塔に面するシャイヨーの丘でした。
この外郭の内部には、直径418フィート(= 127.4064 メートル)の地軸を正しく傾けてゆっくり回転する地球儀がおかれそのまわりに見物人用の24回りの螺旋のスロープが設置されます。外郭の球体には地球の概略が描かれるのに対し、この内部の地球儀にはレリーフが施され、縮尺1/100000の正確な地球の立体的なありようを示します。縮尺1/100000は、当時、地理学者と地図製作者によって最もしばしば使われていたものでルクリュはそれを採用したのです。詳細な細部を学ぶための地図は、地球を分割したものであり、球体を平面に置換することで真実の姿を歪曲しています。
ルクリュは平面の地図を用いて幾何学を学ぶことに警鐘を鳴らしており、世界地図は抽象概念に過ぎず、「この幻想の最初の犠牲者が子供たち」だと言っています。この幻想、真の知識をゆがめる認識論的障害を取り除くためにルクリュは平面地図と同スケールの大地球儀を必要としたのでしょう。
外郭を支える四本の脚は地上34.5メートルに達し、球体の下部に大きな四角形の空間を生み出します。そこには地球儀に施されるレリーフの製作のための仕事場や世界中の「同胞」たちが苦心して調査収集を続けている「地、人、事」に関わる刻々と変わる最新情報を集積分類して収納する図書館が建造されます。
外郭と地球儀の間には15.9メートルのスペースができます。
螺旋のスロープには合計8000メートルの手摺が取り付けられ世界の精密な観察を可能にしています。残りのスペースは、陸地の地形の研究を完了すべく、地球に関する歴史、地質学、その他ありとあらゆる情報の展示に用いることができます。
地球儀の内部は将来の様々なスペースのために空洞にしてあります。下部に書斎を設置することをルクリュは予想しています。
外郭の内側の面は、ジオラマの投射パネルの役割を果たします。その面には、地球儀の観察では直接入手できない様々な、生の補完情報が投影されます。それはピクチャレスクな眺めと風景、人間と動物と植物のタイプ、図書館に次々に収納される最新情報です。
この途方もない計画には、1895年の提案時から建築家アルバート・ガルロンという競争者がいました。ルクリュは妥協を強いられます。1897年9月にはスケールは縮尺1/320 000に、1898年の最終案は縮尺1 / 500 000にまで縮小されます。到底ルクリュが容認できるはずはありません。それはスケールの問題に留まらず、その思想においてガルロンの提案とは相容れないものでした。ガルロンは内部に小さな天球を持つ天空を提示する同様の構造物を提案していました。1896年には万博のコミッショナー、アルフレッド・ピカードは天球と地球を組み合わせたらどうかという妥協案を提示しています。1664年に作られたドイツのゴットルプの地球儀は規模も小さく球体も一つですが、両者を組み合わせた先例と見ることができます。外面は地球儀、内面は空洞の観客席で球の内面は星座となっていて、世界最初のプラネタリウムと呼ばれているものです。
いずれにしろ内部に天球を持つという非合理をルクリュは拒絶します。
図8)大地球儀
最終案の縮小に妥協したためルクリュの案は採用されますが、財政的な裏付けが得られないために、1898年4月市会議にかれは自分の案の撤回を告げます。
世界は分断されたものではなく、民族は全て同胞であり、知識は平面の世界地図を正しく読み取る事のできる専門家の手に独占させてはならない、という無政府主義者のもくろみは叶えられず、1900年の会場にはガルロンの資本主義的な広告に彩られたスペクタクルの会場としての天球儀が建立されました。
撤回を余儀なくされルクリュの最終案のかなり正確な絵をルイス・ボニエによるアールヌーヴォー調のドローイングがわれわれに与えてくれていると、報告者のアラヴォアンヌ=ミュラーが指摘しています。そのドローイングによると、球体の上には見晴し台が描かれており、左手の外郭と内部の螺旋階段の間に空間が存在し、その中間に車のようなものが吊るされています。原始的なエレベーター装置のようにも見えます。やはりルクリュも観客を一気に展望台へ誘い、外の都市と自然の眺望を鑑賞した後に地球の大地と総合的な知識情報に触れるという仕掛けを考えていたのではないでしょうか。右手には螺旋階段と繋がるいくつもの階段らしきものが見えま� ��。途中での螺旋階段への入退場を可能にする仕掛けかと思われます。ルクリュはこれを常設して、いつでも好きな時に少しずつでも「地、人、事」を学ぶことのできる場としたかったのでしょう。
これは球体のアウトルック・タワーと捉えることができそうです。
ゲディスはルクリュの案を熱烈に支持し、この地球儀は「もはや研究所の単なる科学的なモデルなどではなく、大地母神の神社であり、寺院である」と絶賛し、その建立を諦めませんでした。ルクリュも総合的な知のインデックス・ミュージアムとしてのゲディスのアウトルック・タワーを自分の地球儀の先駆として認めました。ルクリュも失望したり諦めたりしていません。やはり盟友であったナダールにいつの日かどこかで作りたい、もしだめならわれわれの子供たちが必ず作ってくれるでしょうという内容の手紙を送っています。
ゲディスは田園都市構想で知られていますが、アウトルック・タワーを中心とする都市構想、総合的な知の都市の構想も抱いていました。
かれらの理想は形を変えて継承されてゆきます。
ゲディスは、この万博会場で国際的なサマースクールとミーティングを開催します。
ベルギーのポール・オトレとアンリ・ラ・フォンテーヌもそれに参加しました。二人は後にムンダネウムと呼ばれる「知の世界宮殿」を構想します。これはゲディスたちの理想の直接の継嗣と考えられます。
オトレは情報科学の父とも呼ばれる活動家の一人で、ラ・フォンテーヌは法学者で政治家でした。フォンテーヌは社会党員として要職を歴任し国際的な平和機関の設立に奔走し、1913年にノーベル平和賞を受賞しています。
1910年に、二人はムンダネウムの前身となった「国際書誌学研究所」をブリュッセルに開設します。この国際センターは「国際的博物館、国際的図書館、国際的書誌学の目録と世界的な文書のアーカイブ」を目指し、膨大な資料はかれらが開発した国際十進分類法(UDC)によって整理され世界中からアクセスできる知の宮殿となります。これは現在のインターネットの先駆ともいえる試みです。コンピュータはありませんでしたので何台もの卓上電信機を用いて情報の収集と公開を行いました。
オトレはこの知識の集約体を新しい「世界都市」の中心と捉える事で、ゲディスの総合知の都市構想をも継承しています。
オトレは1929年にスイスのジュネーブに建築予定のムンダネウムの設計を建築家ル・コルビュジェに依頼しました。実現はしませんでしたが、コルビュジェは内部に螺旋階段を持つピラミッドの建築設計構想を図面にして残しました。アウトルック・タワーと同様に入場者はエレベーターで一気に最上階まで運ばれ、螺旋階段をゆっくりと上から下へと辿る事によって展示物を鑑賞するという構想でした。
この構想は、1959年にフランク・ロイド・ライトがニューヨークのグッゲンハイム美術館で実現させました。それはカタツムリとも呼ばれています。
ゲディスの後継者、ルイス・マンフォードは、助手になることは断りますが、その後1925年に生まれた長男にゲディスという名をつけています。その年かれは初めてフランク・ロイド・ライト論を発表し、かれとの交流は深まってゆきます。ここでもゲディス的な風土は受け継がれて行ったのではないでしょうか。
内部に螺旋の構造を持つ建造物は日本にも古くからあります。日本の場合カタツムリではなくさざえに喩えられてさざえ堂と呼ばれている仏閣で安永年間(ほぼ1770年代に相当)にその起源を持つという事ですが、現存するものでは登りと下りの二層構造の螺旋階段を内部に持つ福島県の正宗寺円通三匝堂が有名です。
1881年には、高橋由一が「螺旋展画閣」という六重の仏塔のようなかれの夢の美術館構想を描き残しています。建物内部の螺旋通路を登りながら絵画を鑑賞して、最上階の六階に到着すると、なんとそこは見晴し台になっています。自然の眺望を楽しんだ後、建物の外側に設営された下りの螺旋路を今度は塔を取り巻く自然の風景を順次堪能しつつ下る事になります。驚くべきことに高橋由一の夢の美術館は芸術のみならず自然の鑑賞へと誘う構造にもなっているのです。アウトルック・タワーや「地人論」と相通ずる思想をかれも抱いていたのでしょう。
図9)螺旋展画閣
3-1 生の庭園、生の神殿
コンピュータ態度不安インド
アメリア・デフリーは、生誕から死に至る人生の七つの特徴的局面をその順に配列した「生の庭園」の構想をゲディスがたびたび立てていたことを報告しています。それは「進化する自然と、上昇と下降をする人間」について考える場とするための庭園でした。
彼女は次のようなゲディスの言葉をそこで引用しています。
伝統的な庭を超えて、進化の庭園が立ち現れ始めます。聖なる囲いの各々には、それに仕える聖職者としての庭師=生物学者が伴っています。…… 男女両性の、また明確に識別できるあらゆる生の発展の局面を理想化することで、わたしたちは一種類ではなくもっと多くのタイプの人間を超える存在を手にすることができます。……これらすべては神々と芸術の女神たちの再-招魂です。それはオリンポスの神々の回帰、パルナッソスの女神たちへの再-登攀です。
それを説明する図が次のものです。上段の円弧には幼女ヘーベーから老婆シビルまでの女神たち、下段の円弧には幼児エロスから熟年のゼウスに至る男神たちが配列されています。
図10)生の庭園
Amelia Defries, 1927「生の庭園」
図10)生の神殿
Patrick Geddes 1926 「生の神殿」
しかしシビルあるいはシビラは固有名詞ではなく「巫女」のことで、何故ここで神格化されているのか分かりません。
ただルクリュの足跡をたどる文章の中で、ゲディスがシビルをどのようなものと捉えていたのかを伺わせる奇妙な一節があります。
ルクリュは、国外追放されるまでの、普仏戦争やパリ・コミューンへの参加、投獄といった悲惨な時代についてゲディスに多くを語りませんでしたが、ルクリュの「いとこであり、義姉でもある、エリー・ルクリュ夫人からとても鮮明で、とても気高く情熱的なその時代の説明を受ける機会を得たことがある」と記しています。そしてその夫人を、「まさに歴史のミューズ(いやむしろシビル)そのもの」と形容しているのです。
歴史のミューズとは、パルナッソスの女神の一人、クレイオーです。パルナッソスの女神たちは若く美しい女性として表現されるのが普通ですが、歴史のミューズであれば年経た女性として描かれても不思議ではないでしょう。なぜゲディスは、この図式にクレイオーではなく、シビルを配したのでしょうか?
最も有名な巫女は、パルナッソス山の麓にあったアポロンの神殿においてオイディプスやソクラテスに神託を伝えたデルフォイの巫女でしょう。ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井には美しい娘として描かれています。ゲディスの図中の蹲る老婆は天井画では年老いたペルシカの巫女に似ています。
巫女は神の異言を「理解」し人間の言葉に翻訳して伝達する、通訳、解釈者、媒介者です。
エリー・ルクリュ夫人はルクリュ自身が語りたがらなかった過去を女神クレイオーの如く見事に語ったばかりではなく、神の如きルクリュの事績をゲディスに分かるように伝達してくれたからこそゲディスは「むしろシビル」と絶賛したのです。
また女性の六つの階梯を理想的に生きて最後の段階に至った老シビルは、理解したことのすべてを次の世代へと伝達する役割を担わされています。女性の人生はそのようにして初めて螺旋状に理想化されてゆきます。
老シビルにはしかしもう一つの重要な役割もあります。
ゲディスは「これらすべては神々と芸術の女神たちの再-招魂です。それはオリンポスの神々の回帰、パルナッソスの女神たちへの再-登攀です。」と語っていました。たしかに13人のオリンポスの神々はここに回帰していますが、芸術の女神たちは再-招魂されていません。
パルナッソス山麓のアポロンの神殿に仕える巫女は、「パルナッソスの女神たちへの再-登攀」を手助けして、山上に住まう九人の女神たちへとわたしたちを誘う導き手として、ゲディスは老巫女をここに置いたのではないでしょうか。
これらをより詳しくした図版が残されています。
図11)Patrick Geddes 1921 「生の神殿」
楕円形の円形劇場のような舞台設定が描かれていますが、ゲディスはこれを「鎮守の森」の「生の神殿」と呼んでいます。四段構成の扇子の形が上下にあります。中央の楕円形の部分には、上下に七つ、計十四個の半円の壁龕が窪まれていて、上に七体の女神、下に七体の男神の像が設置されています。図の小さな黒塗りの四角形がそれです。女性と男性の幼児期から老年期に至る人生の七つの時期をそれぞれ象徴する神々が左から右へと配列されています。楕円形の部分から延びる方形の通路には点線が描かれた部分がありますが、それは人生の迂回路を示しています。
人生の七期を正しく全うすることなく、迂回してしまった人々の名前がそこに記されています。
例えば、子を孕むことができるようになった美の女神アプロディーテ(ビーナス)から、ゼウスの妻、美しき熟女ヘラ(ユーノー)へと続く点線上には「売春婦」の語があります。かのじょは、智慧の女神パラス・アテーナイ(ミネルバ)を迂回してしまったからです。
また処女神アルテミス(ダイアナ)から悲しみのデメーテール(ケレス)へと迂回したものは「オールドミス」、幼女ヘーベーから老女シビラへと迂回したものは「鬼婆」と記されています。ゲディスはフェミニストのパイオニアと見なされる人ですが、やはり時代の限界の中に生きていたのでしょう。
男性の反神たちはさらに詳細に記述されていますが、ここでは省略します。ただディオニュッソスから軍神アレースへとアポロンを迂回する点線上にドイツ兵とあるのは驚きです。
1914年、ドイツの軽巡洋艦初代エムデンの奇襲を受けたスコットランドの商船クラングラント号は、インド洋で撃沈させられます。海の藻くずと消えたその商船の船底にはゲディスの大切な「都市とまち計画博覧会」のための作品と資料が積載されていました。さらに1917年5月に、フランス陸軍に志願して前線に赴いていた最愛の息子アラスターがドイツ兵の手に掛かって戦死します。ゲディスは、戦争は新しい理想のための聖戦などではなく、前線に志願することは、悪魔にそそのかされてガリラヤ湖の断崖から身を投げたガラダの豚の群れと同じだとして、前線行きを思いとどまるように説得したのですが、不首尾に終わり無念の思いも深かったのでしょう。
この神殿の主宰神は、パラス・アテーナイとアポロンであり、人生の絶頂期を象徴する神々としてここに置かれています。かれらとデメーテール、ディオニュッソスを含めた四体は、「神々を伴うヴァレー・セクション」でも重要な役割を担わされて登場しています。
4-1 エティカとポリテイア
ブランフォードとの共著の中で、ゲディスは「自然と同様に、人生も、変幻自在のプロテウスのような人生流転の底流に流れている科学的な秩序を持っているはずです」と述べ、「この秩序を発見することが、科学の中で最も年若で最も困難な、社会学の仕事なのです」と言っています。さらにこの「政治学」の基本的教科書はアリストテレスのそれですとも指摘しています。ここで「社会学」と言い「政治学」とも呼んでいるものはゲディスの「市政学」に他なりません。
現在の学問の名前からすると混乱しているように見えますが、ゲディスはここでアリストテレスに立ち戻って考察しているのです。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の最後の部分で、「人間的事態に関わる哲学」を可能な限り完成させるために、「立法(ノモテシア)」と「ポリスの政体(ポリテイア)」について考察しなければならないと述べて、『倫理学(エティカ)』を閉じて『政治学(ポリテイア)』へと移行しています。これら二つの学問は別々のものとして論じられた訳ではなく、「人間的事態に関わる哲学」として連続した講義であったと考えられます。
エティカでは、個人としての人間の心のあり方(エートス)が問われ、ポリテイアでは都市のあり方(ポリテイア)が問われていますが、同時に集団としての個人、ポリスという共同体の中に住まう人間の問題が問題にされています。「人間的事態に関わる哲学」はその両方がなければ完成にはいたらないという点で、両者は共通しています。
ゲディスの「生の図式」の最後を飾る第四の部屋を思い起こして下さい。
この図式の中で「倫理-政体」と訳したゲディスの原語はEtho-Polity という言葉です。これはエートスとポリテイアを組み合わせたゲディスの造語であり、 ゲディスはそう呼んではいませんがまさに「人間的事態に関わる哲学」が問われる場がそこにあります。ゲディスはそれを「市政学(Civics)」と名付けたのです。それは市民論であり、都市論でもあるということになります。この図自体は、「生の図式」であり、個としての人間の生き方が問われています。しかし後に見るように、ゲディスの「理想都市の図式」はこの図式と完全に重ね合わされています。
アリストテレスには、このような「人間的事態に関わる哲学」とならんで「自然本性的事態に関わる哲学」があります。それらはあいまってアリストテレスの「地人論」を構成するといえるかもしれません。
4-2 すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する
アリストテレスの『形而上学』冒頭句は、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」(出隆訳)というものです。
「生まれつき」と訳されたギリシャ語「ピュセイ」は、「ピュシス」という名詞の与格で副詞的な働きを担っています。「生まれつき」とは、 「ピュシスにおいて」ということになりますが、このピュシスという言葉は、近代の自然科学が対象としてきた「自然」とはかなり異なるものです。
アリストテレスは、「ピュシスについて」という講義録を残しました。日本語では『自然学』と訳されています。ピュシスは自然という意味が第一義です。しかし「ピュシス」は、外的な自然をさすと同時に、「自然の本性」「ものの本質」をも意味します。この題名をラテン語の形容詞で physica という言葉が作られて学問の名として使われるようになります。名詞は省略されていますが、「知識、エピステーメー」と推定されます。自然についての学、ということでそれが現在の physics 物理学の学名となったのです。
『形而上学』と訳されたアリストテレスの講義録にはもともとかれ自身による題名が付されてはいませんでした。かれの講義録を整理したアンドロニコスが「ピュシスについて」の後にその部分を配置したために、初期アリストテレス学派の人々は便宜的に「タ・メタ・タ・ピュシカ」と呼ぶようになります。「メタ」は「〜の後」を意味する前置詞です。字義通りに訳すなら「自然学の後に続く学」、すなわち「自然学後書」ということでそれをラテン教父たちは短縮して「メタフィジカ」と名付けました。
このメタフィジカという学問が明治時代に日本に紹介された時、言葉の字義通りの意味ではなくその内容を勘案して「形而上學」と訳されました。
明治14年(1881年)、井上哲次郎らによって編集された『哲學字彙』のp.75には、
Metaphysics 形而上學 按、易繫辞、
形而上者謂之道、形而下者謂之器
(Metaphysics 形而上學は、易繫辞の次の言葉から。
「形よりも上のものは、道であり、形よりも下のものは器である。」)
と記されています。
井上らは、「易経繋辞上伝」第12章における「道」と「器」、「形而上」と「形而下」という対象の差別に基づいて、「道」=「形而上」を対象とする学として「形而上學」という学名を創出した訳です。Physics は『哲學字彙』のp.92で「形而下學」ではなく、「物理學」と訳されています。井上の時代に欧米から移植されたこれら二つの学問はすで�に対極的なものとしてとっくの昔に定着してしまっていたのです。
しかし『形而上学』冒頭の句は、人間を後天的に獲得されてゆく「性格(エートス)」の視点からではなく、その「自然本性(ピュシス)」の立場から見ての発言です。そこでは、人間や神の問題が問われ始めます。人間も、また神も(神は「運動」を巡る考察の中で、原理上想定せざるを得ないものとして、究極的な原理として立てられています)自然の一部だからです。「自然学の後に続く学」は、続自然学であり、ここでもまた「連続する学」であると考えるべきなのです。だからこそその冒頭で、「自然本性上」人間は知ることを求めていると書き記したのです。
しかしこの言葉はかなり奇妙なものです。人間は誰かに教えられて知ることを求めるようになるのではなく、「自然本性上」知ることを欲する動物だと言っているのですから。
どうしてそのように言えるのでしょうか?
かれはその証拠として人間の「感官知覚への愛」を挙げています。見ること、聞くこと、嗅ぐこと、触れること、これらの諸知覚(アイステーシス)はその実際的な効用を離れてそれ自体としても求められます。このような、知覚をそれ自体として求める人間の欲求が、究極的には人間の芸術的な活動、例えば視覚芸術、音楽、日本では「嗅ぐこと」に特化した雅な香道等々の発展を促してきたということもできるでしょう。
しかしなぜ人間の「感覚(アイステーシス)への愛(アガペー)」が、人間の自然本性上の知識欲の存在の証となるとアリストテレスは言うのでしょうか?
アリストテレスは、知覚の中でも「最も愛しているのは、眼によるもの」であり、「何か行為をするためばかりではなく何も行為をしない場合でも、わたしたちは言わば他の何ものよりも見ることを好みます。というのは、あらゆる知覚の中でこの知覚(視覚)こそが最も良くわたしたちに物を認識させ、多くの差異を明らかにしてくれるものだからです」と続けています。
「知ること」と訳したギリシャ語はト・エイデナイという語で、プラトンやアリストテレスはこの言葉が、語源的に確証はされていないようですが、エイドスと深い関係にあると考えていました。エイドスの基本的な意味は「見られたもの」であり、物の形です。しかし哲学的なレベルでは、例えばプラトンの場合は「イデア」を、アリストテレスの場合は「形相」といった実際には眼に見えない概念的な存在をも意味します。
それとの関わりで言えば、自然本性上での「知ること」とは、日本語で言えば「見知ること」というのが最も近い訳になるかもしれません。
人間は、「見ること」を欲するが故に、「知ること」を欲するという考え方は、特殊にギリシャ的だと言わざるを得ないでしょう。ゲディスはその後継者です。
しかしこの冒頭句は「見知ること」というレベルにはとどまらず、すべての人間は自然本性上「知ることを愛する者」=「哲学者(フィロソフォス)」であるという宣告のようにも聞こえます。これは「すべての人間はアーティストである」というヨーゼフ・ボイスの言をも想起させます。
人間は生まれつき哲学者であり、芸術家なのです。
以上のように見るとき『自然学』とそれに続く『形而上学』からアリストテレスの「自然本性的事態に関わる哲学」が成り立っていることが分かるでしょう。
「正しく見ることを学ぶ」ことによって初めて地理学の研究を開始することができるというのが「アウトルック・タワー」の思想でした。
ゲディスは、「運動を定義しようとしたギリシャの哲学者は、ただ歩くことによってその答えを見いだしました。そのひそみに倣って、わたしたちは今そのような類いの逍遥(ペリパテイア)の努力をしているところです。」と言っています。
「運動とは何か」というのは、アリストテレスの「自然本性的事態に関わる哲学」の中心的テーマの一つでした。
逍遥学派のように、ただただ歩くことによってロンドンという大都会のヴァレー・セクションの地域調査をし、ゲディスが提唱する様々な方法論を駆使して、ロンドンの都市計画を今策定しようとしているところだということです。
かれは「さらに進展させられた地域調査の概念は、大地球儀それ自体を包摂して、自然諸科学の広大で多様な領域の統一へと向かう」とも述べています。これがゲディスの「自然本性的事態に関わる哲学」なのです。
4-3 理想都市論
1904年と1905年にロンドンの社会学学会でゲディスが発表した「市政学」の連続講演は、それぞれ翌年の社会学会誌に掲載されています。それらは1979年に、メラーが編集出版した『理想都市』に再録されています。その冒頭には、ゲディスが敬愛したキャノン・バーネットの「理想都市」という小論も再録されています。
ゲディスは、「この論文(市政学)すべての本質的要素を単純な次の定式に最終的に圧縮できるでしょう」と述べて、生の図式と対応する四つの場所の分析図式を提示しています。 上と下の各図はそれぞれ「鏡映像」となっています。
図12)「市政学」のまとめ図
「学校」の項目は、ゲディスの解説途上では、「調査」「技能・知識(Kraft-Knowledge)」「習慣」とか「調査」「知識(Knowledge)」「道徳・法律」といった呼び名が使われていましたが、ここでの三対は、「伝承知(lore)」「学識(lear)」「愛(love)」となっています。lore-lear-love というのはゲディスの言葉遊びのようにも響きますが、「学校の本質的要素は、場所—伝承知、仕事—学識、人々—愛です」と述べたところに、かれ自身がわざわざ次のような注記を施しています。
「伝承知(lore)」の使用は、第一に感覚から導きだされた経験知としてであり、それは伝統的なものです。ここではそれに限定して用いています。「学識(lear)」という古語は、現在でもスコットランドでは、その厳密な範疇において、知的合理的な、しかし伝統的でもあり職業的でもある知識として理解されていますので、ここに復活させることにします。
また、別の箇所で、
「人々」の過去の伝承知、聖的な知識であれ古典的な知識であれ、それらの歴史、文学、批評は、古い学問の府ではすでに活発に増強されてきています。
と、伝承知についての解説も行っています。それは新興のロンドン大学こそ、「古い学問の府」ではできないコンテンポラリーな都市研究に最も相応しい大学であることを力説するためでした。
町と学校は本来的なヴァレー・セクション教育の場です。
ゲディスは、「市政学」発表と同年にピッテンクリーフ公園の再開発の提言書を刊行しています。その中で、「芸術としての市政学、都市論は、ユートピアではなく、エウトピアと関わるべきです。つまり、すべてが良い不可能などこにもない場所(ユートピア)を想像するのではなく、どの場所もこの場所も、とりわけわたしたちが住んでいるこの町を最高最善の場所に作り成すことです。」と述べ、公園の北側の入口付近に「子供の遊び場公園」を作ることを提言すると同時に、「ゲームの指導者、ゲームの全く教育的な利用、その哲学、心理学、モラルといった問題は無視されるべきではありません。……しかしこれらの課題は近年他の国や他の言語圏で主として取り上げられてきた問題です。」と述べています。「他の国」とはアメリカ合衆国のことで、「他の言語圏」には日本も含まれています。「遊びの先生が認められ始めていることこそ増大するアメリカのリーダーシップの証」だとも付言しています。
このような「遊びの師範」、「遊びの達人」は、「健全な活動のための摂生法をわきまえた遊びの先生」であり、ゲディスは当時の日本人の中に理想化された師範像を見ていました。このような「遊びの師範」によってヴァレー・セクション教育が実践されるのです。
ゲディスは従来の学校教育の徹底的な批判者でした。息子のアラスターに施した「ヴァレー・セクション」教育や日曜日のホームスクールは、ゲディスの理想とする「学校」であり、「伝承知」「学識」「愛」を獲得する場でした。ゲディスは、「独学の人、それは最も肥沃な発見者であり、真の根本的学校=経験の学校で生み出される」とも言っています。かれが終世敬愛したダーウィンも独学の人でした。
1896年のエジンバラ夏期講習のシラバスが残されています。
その第四回目にシラバスの冒頭でゲディスは、
「夏は野外、冬は研究」では不十分。進化論者の研究は、日々、できる限り観察と解釈の両要素を包括すべき。
と書き出しています。長いフィールドワークの後、それを整理し分析し解釈するというのは一般的な研究方法のように思えます。しかしそれでは不十分だと言うのです。ゲディス自身は、日々、観察し、早朝に解釈を行い図式化するという仕事を続けていました。
ゲディスは、かれの理想とする「この科学的生活の最高の模範例がダーウィン」だと述べ、
かれは絶えず視ること(Sight)から視抜くこと(洞察Insight)へと立ち上げてゆきますが、この視抜くことが常に視ることを更新し続けるのです。少年時代の登校拒否から、青年時代の旅行や熟年期の分析、観察、考察を通じて、視抜くことと視ることは、互いを豊かにしあい、かくして両者の巨大な成果としての解釈と理論は、単なる権威的な宣言ではなく、始めから、かれに続く研究者への世界的な刺激でもあり、新たな領域への、また個人的な発見の新章への「開け胡麻」ともなったのです。
と解説しています。サイトからインサイトへ、インサイトからサイトへという理想的「科学的生活」の螺旋的構造の重要性の指摘は興味深いものです。螺旋や卍の形態は「古代世界の生命のシンボル」であり、ゲディスにとってとても重要なものです。『内の世界と外の世界』では卍を「ケルトの螺旋、極めて古い十字架」と屢説し、人生の四つの部屋のどこでも自由に出入りできる「魔法の杖」であり、「魔法のお守り」であると、自分の子供たちに教えています。これもまた「開け胡麻」なのです。
しかしこのような「学校」を卒業して次の段階に至る時期が訪れます。「学校」のレベルのルーティーン化を避けるために思索の二重のプロセス——批判的、構成的——が要求されます。
このプロセスを介して、僧院における瞑想の世界へと至ります。この「インルック・タワー」における都市という共同体の成員である集合的市民の思索の内実が都市の性格を規定するのです。
感覚、知性、感情はより深化して、右手の「僧院」の「心像、理論、理想主義」の三対に照り映えてゆきます。このような「個人と社会の両方からの、詩的、哲学的、精神的な覚醒と再生のプロセスの心理学は最近取り上げられ始めているが、ここでは取り扱わない」と断った上で、ゲディスは続けます。
最終的に、至高の仕方で、本来の「都市」が立ち現れます。その都市の個性はその規模や形式によって異なります。しかしそこにおいて、理想は社会的生すなわちポリテイアの内に表現され調和され、理念は文化において統合され、美は隠者の書斎や部屋から芸術の世界へと運び出されます。
本来の「都市」が立ち現れるためにはしかし僧院の働きが不可欠です。上記の図式は一見理想都市を示す図式に見えながら、一歩間違えれば悪しき都市の図式に頽落しかねないものです。かれは次のようにも言っていました。
プラトンのアカデメイアおよびアリストテレスのリュケイオン、中世の修道院と現代の研究所は都市の生活に対する影響においてとても肥沃で創造的なものでした。都市の生活からそれらは隠遁しているように見えるけれども。世界を変容させ、新たな各々の時代を開いてゆくのは、僧院の三重の産物、——理想、理念、イメージ——の新たな組み合わせです。
その都度の新たな啓示とヴィジョンが、経済的必要性や外的力の単なる機械的圧力によってではなく、単なる衒学的な教えによってでもなく、もっとはるかに繊細な仕方で、その時代の人々を新しく予想もできない組み合わせへと導くのです。
ゲディスの目指す理想都市は、現代の「プラトノポリス(新プラトン主義)」、「神の国(アウグスティヌス)」、「太陽の都市(カンパネッラ)」です。それは「哲学の僧院から、その長い沈黙の修養から、文化の兄弟結社、文化都市それ自体」が生まれでてくるのです。
そのような理想都市と生の図式は完全に対応しています。このような沈黙の場こそ「インルック・タワー」となる筈のものです。
図13)理想的都市(1905) 図14)生の図式の右図
この図は「市政学」のまとめ図の右半分を詳細にしたものですが、一つ大きな相違があります。都市の部分の「政体」が「(善)—政体」となっている点です。原文は (Eu)-Polityです。このエウはエウトピアのエウと同様「良い」を意味するギリシャ語の接頭辞です。良き場所に対して悪しき場所(カコトピア)が存在したように、(エウ)は(カコ)に、すなわち「(悪)—政体」への頽落可能性を示唆しています。
4-4 最も包括的なヴァレー・セクション
1930年にケンブリッジ大学から出版された『地域調査入門』の中でゲディスは次のように紹介されています。
社会学のニュートン、あるいはダーウィンはまだ現れていないが、きっと登場すると予言できます。多分、地域調査にたずさわっている人の中から出てくるでしょう。あるいは少なくともその人は地域調査の仕事の所産に依拠する人の筈です。その先駆的な存在はすでに何人かいますし、その中で最も重要な位置はパトリック・ゲディス教授に与えられてしかるべきでしょう。
かれは現代の地域調査運動の主要な鼓舞者であり続けています。
この書に、「素朴なタイプを伴うヴァレー・セクション」と題されたゲディスのこのテーマに関わる最も包括的な図式が掲載されています。著者たちは、入門書という制約の中で詳細な解説は不可能なので次の著作に回すと断って簡単な解説にとどめています。しかし残念ながら次の著作は出版された形跡がありません。ゲディス自身の解説もありませんが、ゲディスの図式であることは確かだと推定されます。
図15)1930年版、ヴァレー・セクション
1904年版と1909年版とこの1930年版の図式は大きく異なっています。山並みの横断図の下部は、タイプが完全に八つの領域に細区分された点と、反社会的なタイプがその下に描かれたということを除けばそれほど大きな差異が生じたとは言えないでしょう。
しかし山並みの横断図の上部の三列の項目は、この図式で初めて登場してきたものです。基本的な職業に対応する「学問」の項目では、「貧農」の部分は空白のままです。「理想」の項目では、「樵人」と「漁師」の部分は空白で、「豪農」と「庭師」の二つの項目にまたがって「ディオニュソス/約束された地」という欄が設けられています。
「神々等々」というのは神々だけではないからです。「生の庭園あるいは生の神殿」からは、「豪農」にデメーテール(ケレス)、「庭師」にパラス・アテーナと、二体の女神が参加しています。男神ディオニュソスは両女神の下の「理想」の項目に登場していました。
ギリシャ神話からは、「鉱夫」の項目には優れた鍛冶技術を持った一つ目の巨人キュクロープス、「樵人」には、牧神パーンと森のニンフや精霊たちが、「猟師」には狩猟の名手アクタイオンが、最後の「漁師」の項目には海神ポセイドンが配されています。
北欧神話からは、「猟師」の項目に最強の戦神トール、「羊飼い」に雌山羊ヘイズルーンから搾乳される「蜜酒」のみを食したとされる主神オーディーンが配されています。「猟師」の「理想」の項目のヴァルハラは、戦死した英雄たちの魂が集う宮殿でもありました。
その他の宗教的な偉人たちも登場しています。「羊飼い」にはマホメッド、「貧農」には仏陀、「漁師」には「人を漁る者」聖ペテロが選ばれています。
1923年のゲディスの講演に従えば「善き羊飼い」は、キリストと、その予型である牧人アポロンが想定されているものと思われます。
地域調査の基礎としてのヴァレー・セクションは、世界中の「神々等々」までもが集う最も包括的な図式としてここに提示されています。
1924年4月8日付けのゲディス宛のマンフォードの手紙の中に、この著作の著書の一人ファッグについての言及があります。かれは長文の手紙の追伸として「ファッグがわたしに進化論に寄与するフロイトの興味深い論文を送ってくれたところです。そのフロイトの論文はお読みになりましたか?ファッグはとても優秀なやつです」と書いています。その箇所に書簡集の編集者ノヴァクは「クリストファー・ファッグ、ゲディスの後継者、イギリスの地域調査運動の主導者」と注記しこの入門書も紹介しています。
マンフォードの手紙を介してゲディスはファッグを知った筈ですし、この著作の出版に際して晩年のゲディスが乞われて書き与えた図式ではないかと推定されます。
ゲディスはマンフォードに「同封の図式を御覧下さい。その解読はあなたならできるでしょう。(ご自分の為に、この図式を進展、展開しさえすれば。)さらにあなたご自身の図案や展開を書き加えてみて下さい。」と謎掛けをして「コントの法則(三つの国家の状態)および、現行の進展における必要とされる展開」と題した図式を送っています。
図16)コントの法則の応用図
この図の右VとVIはそのまま市政学のまとめ図と言っても良いものです。晩年のゲディスはマンフォードを早逝したアラスターの再来と期待を込めて難問を投げ続けています。ゲディスがファッグに同じような課題を与えたとしても不思議ではないでしょう。
ゲディスの『地人論』は未完のまま私たちに手渡されたようです。
大地も僧院も荒れ果てた現在、私たちは自らの「ヴァレー・セクション」に基づく自らの『地人論』を探索すべき時代になったと言えるのかもしれません。
Philip Mairet, Pioneer of Sociology: The Life and Letters of Patrick Geddes, London, Lund Humphries, 1957, p. 123 図版は、p.124
Volker M. Welter, Biopolis, 2002, p.60 fig.3.1 しかしヴェルターは、後に(Post–war CIAM, Team X, and the Influence of Patrick Geddes, 2003)1909年版として、この図ではなく1904年版の図を論文冒頭に掲載。
内村鑑三『地人論』、岩波書店、岩波文庫版、昭和17年、p.8
Patrick Geddes, A great geographer: Elysee Reclus, Scottish Geographical Magazine, 21: pp. 490-6, 548-55.
拙論「明治の美学とゲディス的思想」,『パトリック・ゲディス:生い茂る葉によって我らは生きる』YICA & ECA,Yamaguchi & Edinburgh, 2005, 図1。
VOLKER M. WELTER, Biopolis: Patrick Geddes and the City of Life The MIT Press, 2002, p.194
P. Geddes, Women, the Census, and the Possibilities of the Future (Edinburgh: Outlook Tower, 1921)
The Ideal City ed. by Helen E. Meller, LEICESTER UNIVERSITY PRESS 1979
Patrick Geddes, Contemporary Social Evolution (ten lectures at the Edinburgh Summer Meeting), 1896
Lewis Mumford and Patrick Geddes: the correspondence, ed. by Frank G. Novak, London and New York,1995, p.201
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