マンガ・アニメは、はたして「芸術」であるべきか? - Biting Angle
マンガ・アニメは、はたして「芸術」であるべきか? - Biting Angle
(前回の記事に追記した部分が長くなったので、やや修正して独立させました。)さて、村上氏の作品についてデュシャンとの比較で論じられることがあるようですが、そもそも
表現者としての立場が大いに異なるこの両者を同列に並べるのは、あまりフェアなやり方とは
思えません。
そもそもデュシャンの場合は「芸術家の立場から芸術を否定・嘲笑する」という表現によって
自らの属する芸術ジャンルへの疑問を提起するという「異議申し立て」を敢行したのであり、
そこには自らの立場を投げ捨てるという芸術家としての自決、あるいはジャンルそのものを
巻き込んでの自爆テロに近いような衝撃があったはずです。
これに対して、村上氏の作品をデュシャンと同様の位置づけでで解釈した場合には
「芸術家としての立場から、アニメ・マンガを否定・嘲笑する」という図式になり、
内部からの「意義申し立て」という衝撃は成立しないことになります。
そしてこの文脈を書き換えることで、「意義申し立て」として有効化するためには、
村上氏がマンガやアニメという表現の側に入り込んでいくか、逆にアニメやマンガを
「芸術」の領域へと引き込むことが必要なのです。
このように解釈すれば、村上氏がアニメやマンガを「芸術」として売り込む戦略の意味も、
自然に見えてくるのではないでしょうか。
まあいわゆる「現代芸術」に関しては、その評価と価格が情報戦と価値感の操作によって
相対的に上下するというのは、ごく当たり前の話。
ですから、それを狙ったとおりに行っている村上氏は「現代芸術」に携わる専門家として
正しいことをしているし、また非常に頭のいい人物であるとは思います。
ただし、そのような操作の結果で生まれる「価値」が、マンガやアニメといった表現において
本来評価されるべき「価値」と同質かと問われれば、私としてはノーと言わざるを得ません。
そして結局のところ、それが村上氏に対して感じる「異物感」の理由でもあるのでしょう。
私はむしろ、村上作品に対してはリキテンシュタインやウォーホルに見られる色彩感覚や
パターン化といった傾向を強く感じます。
そして村上氏はこれらを十二分に研究し、その手法を(マーケティング戦略も含めて)
自らのルーツにある「日本美術」と「オタク表現」へと転用することで「自己の作風」を
確立したのではないかと考えています。
ただし、これはあくまで美術的価値における「読み換え」や「書き換え」を伴う行為であって、
いわゆる「生のままの表現」としてのアニメやマンガに対する評価とは性質を異にするものと
思います。
そしてアニメやマンガについての、表現的な「異議申し立て」については、既に業界内部から
より刺激的なものが登場している・・・とも言えます。
そもそも芸術との境界性を持つノルシュテインらの海外アニメはもちろんのこと、国内でも
ガイナックスの『新世紀エヴァンゲリオン』、プロダクションI.G.の『立喰師列伝』、そして
シャフトによる一連の作品などは、その手法や表現の成否、そして芸術性の有無などについて
多くの議論があり、そのこと自体に「異議申し立て」としての存在価値があるとも言えます。
私がこのタイプの代表的な作家をひとり挙げるなら、マッドハウスの「四畳半神話体系」などで
高い評価を受けている、湯浅政明監督ですね。
また逆にサンライズの『カラフル』では、原恵一監督がアニメから意図的にデフォルメや
省略といった既成の記号を排除し、リアリズムへの接近を試みるという形での「異議申し立て」
を行った例も見られます。
マンガについては最近とみに疎いのでいい例を挙げられませんが、例えばアフタヌーンや
IKKIといった青年向け雑誌では、以前から積極的に実験性の高い作品を取り上げて、
マンガ表現の幅を広げてきたように感じています。
そして私としては、外部からとってつけられたような「マンガ・アニメの芸術性」よりも、
(好き嫌いはともかく)業界内部からの自発性を伴ったチャレンジについてより好ましく
思いますし、そちらのほうがよほど興味をそそられます。
またさらに言えば、あえて「現代芸術」というカテゴリーの中に「マンガ・アニメ」を
含める必然性はあるのだろうか?という疑念も浮かんできます。
実のところ、マンガ・アニメ的な表現を海外へと売り込むため、「カワイイ」や「萌え」そして
「クール」という単純な記号に置き換えたうえ、作品ごとの細かな差異を軽視した売り込みを
計ったことにより、逆に国内におけるアニメやマンガというジャンル内に「主流」と「非主流」の
線引きが生まれやすくなったのではないか・・・という危惧を、最近特に強く感じています。
(「萌え」は国内に特化した現象と思われているようですが、そもそも2004年のヴェネチアで
開催されたビエンナーレの日本館で大々的に取り上げられた言葉が、この「萌え」です。)
そして多くの制作会社が「主流」と目される傾向の作品を連発する裏で、「非主流」の作品は
製作することも困難になっています。
一方で「主流」のほうも、数の多さと傾向の類似性が限られたパイの取り合いを生むことになり、
結局は一握りの大勝ち組とそれを取り巻く2番手以降がほとんどの取り分を持っていく状態で、
業界全体が大いに活性化しているようには見えない、という現状です。
さらにこのような傾向は、作り手とファンの双方にある種の「閉塞感」をも感じさせています。
安易な定義づけとそれを権威化・偶像化して持ち上げる傾向が、そもそもアニメやマンガの持つ
多様なテーマや多彩な表現への可能性を閉ざすということにはなっていないでしょうか?
結果的に、アニメ・マンガのポテンシャルは落ちてきているのではないでしょうか?
当たり前の話ですが、アニメやマンガをシンボル的・ファッション的に流用した「芸術」に
頼ることなく、作品そのものを世に問い、その価値を認めさせていくことが重要だと思います。
本来とは違う形で世界に広まったところで、長期的に見て益があるとは考えにくいのですから。
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