(1)引きこもりと不登校、ニート |
不登校・引きこもりの状態に、私は本質的な差異はないと考えています。不登校は、学校所属を前提とし、引きこもりはそれを前提としませんので、一般には不登校のほうが年齢層が低くなります。引きこもりは学校在籍を含みますが、それを超えた年齢層に広がっています。
主にこの学校所属と年齢層の違いが、両者に副次的な違いをもたらしています。
不登校は、学校に登校できない(しない)状態像であり、それは引きこもりが唯一の理由ではありません。実はニート(NEET=Not in Enployment,Educatin or Training、若年無業者)も不登校と同じで、引きこもりがニートの唯一の理由ではありません。不登校には非行型、ニートにはヤンキー型と言われる人たちがいて、これは引きこもりとは対極の状態像を示す人たちです(背景には共通する部分はあります)。
そのような引きこもりが主な理由ではない不登校、ニートに関しては、以下に述べる事情は必ずしも当てはまりません。引きこもりを共通する状態像であると考え、その本質、背景、現状および対応(脱出)方法を、比較的平易に説明します。
引きこもりとは何かは、いくつかの原因や定義づけがされています。いずれも参考になる意見ですが、あまり深入りしないことにします。対人関係(特にある人との継続的な人間関係)から距離をおこうとするのが、引きこもり現象の中心的な部分です。「外出する・しない」というのは、それに比べれば二次的な要素でしょう。
ただ一般には、この理解が定着しているとは思えませんから、この文の中でも自宅からほとんど外出しない人を引きこもりと表現することもあります。
(2)引きこもりのさまざまな原因・理由 |
引きこもり(前述の意味で不登校、ニートを含む。以下同じ)が、日本でこのように増えていることに関しては、いくつかの意見があります。私がこれまで見聞きしたこと、本で読んだことのなかで、納得できる理由を列挙してみます。
@日本が、特に1960年代以降の高度経済成長期をとおして、高度に発達した経済社会になり豊かな国になっている。
A食生活が、この30〜40年間に大きく変わり、それらが心身の状態に影響している。農薬の影響、カルシウムなどミネラルの不足、乳幼児の母乳哺育の後退。
B旧来の家族関係が崩れ、新たな家族関係が十分に形成されないなかで、かなり多くの家族内にゆがみが出、矛盾がたまり、家族内の弱い立場の人(子どもなど)に問題が表われやすくなっている。
C伝統的な地域的共同体が崩れ、隣近所のつながりが少ない新興開発住宅地域やマンション住居者を典型的に、子育てが家族内のプライベートな事柄になっている。ここでは育児書が子育ての教材になり子育てが画一的な基準に左右されやすくなっている。
D明治期につくられた学校制度が百年以上の歳月を経て、子どもと社会の実情に柔軟に対応できずにいる。それが不登校の子どもとして表面化している。
E日本社会が変革期に入り、さまざまなゆがみや矛盾が、社会のなかの弱者に当たる人たちのところで表面化する社会病理現象を示している。
見聞きしたことを私なりのしかたで表わしましたので、必ずしも一般に普及している表現とは同じではないかもしれませんが、おおむねこのような理由が語られているように思います。これらは、子どもの育つ環境条件を述べるという点で共通しています。
私は、これらの理由、背景説明にそれぞれに納得できる部分があります。
引きこもりに至る子どもの生育過程には、虐待、服従、いじめ、放置など、子どもに対する強い抑圧や禁止が、相当期間にわたって継続したり、繰り返されたりする例を見ることができます。そうなる背景には、上に述べたような、いくつかの理由があり、家族や学校、子どもの世界での精神的な圧迫、追い込まれ状態のはけ口が、「より弱い子ども」に向けられているためと説明できます。
この「より弱い子ども」とは、その集団内における相対的な位置を表わします。したがって、家族のなかで父親や祖父母に対して比較的弱い立場の母親が、精神的な圧迫感情(ストレス)を、より弱い立場の子どもに向けることもあります。複数の子ども(きょうだい)がいる場合は、必ずしも末子が弱いというわけではなく、「よい子」でいようとする反発しないタイプの子ども(ときには長男や長女)に向けられることもあります。学校などの子ども世界では、おとなしい子、障害のある子、孤立しがちな子に向けられることもあります。
これらは、ストレスが、強い者から弱い者に流れていく一般的な経路を示しています。同時に、その弱い立場の人の前で、保護者、教師や常識に富む人の、この経路を阻止する力が弱まっていることも示しているように思います。
これらはおおよそ上に述べた要因の連鎖反応として説明することが可能でしょう。しかしそれにもかかわらず、それではうまく説明できない引きこもりに特有の、共通する理由があると思います。少なくとも引きこもり当事者たちに、ある期間接していれば、ごく普通に感じられる原因や背景が、この外側にあります。
(3)五感が敏感な人たち |
上述の子どもが育つ環境条件のほかに人が引きこもるもう一面の理由があります。引きこもりは、本人が持っている(天性の)要素と、後天的な要素が組み合わさってなります。上記では、後天的な要素を列挙しました。
次に、子どものもつ先天的な要素の特色を述べましょう。ひとことで言えば、「ヒトの心の雰囲気が自然にわかってしまう繊細な感性の持ち主」ということです。先天的要素ではあるけれども、それがかつてのように生育過程で変容を遂げずに、ある年齢まで持ち越されるようになった、そういう社会状態が関係しています。
30代の男性Aくんが、ある日「きょう地下鉄に乗っていたら銀行のにおいがして…」(気が重くなった)と言ってきました。「銀行のにおい? 病院のにおいならわかるけど、銀行のにおいってどんな?」と聞き返すと、「銀行でも感じるんだけれども、もう少し違う場でも感じる、ビジネスマンのにおいかな」という答えです。少しわかる気がしました。
Aくんの引きこもりとしての程度は軽いかもしれませんが、人間関係をつくる点では、ある限定した人にしか関われません。彼の「におい」という点に注目して、日ごろの言動をふり返ると、ゴミや、食べ物などに神経質になっている姿が思い出されます。Aくんは、おそらく嗅覚が鋭い感性の持ち主なのです。
20代になったHくんの話しをしましょう。Hくんのお母さんから「食べ物の注文は多いです。特に料理をするときは気を遣います」と聞いていました。Hくんに「食べ物の好き嫌いは?」ときくと、「味の強いのが苦手なんです。それで好き嫌いは多いと思います」という返事でした。
Hくんに限らず、食べ物に好き嫌いがある(その中心は、嫌いで食べられない物がある)というのは、引きこもりの人に比較的多いと思います。いろいろな人から話しを聞いてみて、彼(彼女)たちは、味覚が敏感である、そのために食べられない物があるというのが私の得た結論です。
もちろん、「違いがわかる」味覚の持ち主であっても、それで自動的に好き嫌いが多くなるわけではありません。味覚が優れ、味の違いがわかり、それでも何でも食べられる人もいると思えるからです。
嗅覚と味覚について、その鋭さの表われを二人の例で示しました。
次に、視覚(目)と聴覚(耳)についても述べておきましょう。この感覚が優れている例は、嗅覚や味覚のような形で把握することができません。それは視力がよい、聴力がよい、というのとは少し違うと思うからです。視力が低くても視覚が優れている、聴力が低くても聴覚が優れているという現象があるのです。
私たちは、たとえば街中を歩いていると、いろいろな人がいて、いろいろな物があって、さまざまなものが見え、さまざまな音が耳に入ります。しかし「見て見えず、聞いて聞こえず」という対応が自然にできています。
このことわざ的表現は、注意力の散漫さを示すのですが、この場合にも共通する言い方です。視覚や聴覚から入る情報を、必要なものだけを自動的に仕分けしながら取りいれています。目に入ってもまったく意識しなかったり、耳に入ってくるものに一つひとつ反応しないようになっています。
そういうことが自然にできるから日常生活ができるのです。自然に、意識外で、自動的に取捨選択をしながら、目や耳から入る外部情報を取り入れているのです。この取捨選択をし外部情報を取り入れるという過程が、引きこもりの人には必ずしもうまくいかない人がいるのです。
たとえば、TくんはYくんと話し込んでいます。そこにTくんの顔見知りであるBくんが来て、Nくんと話し始めます。そうするとTくんは、一方ではYくん話しながら、他方では隣に座っているBくんとNくんの話しが気になるし、実際にそこではおよそどんな話しが進行しているのかがわかってしまうのです。たんに言葉だけでなく、BくんとNくんの表情や動きなどもわかるし、それによって何が話されているのかを把握する、会話以外の情報源にもなっているのです。
Tくんタイプの人は、このような場合だけでなく、一般に、目や耳から入ってくる外部情報を、自動的に取捨選択して取り入れることが苦手です。いやもしかしたら、場合によってはそれを苦手とは感じていないのかもしれません。しかしこの能力(?)は、日常生活の面で、さまざまな不都合を招いていることは確かです。
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